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2016年7月29日金曜日

ポケモンGOと経済効果

「事務所でピカチュウ3匹捕まえたよ」って友人の投稿を見て、訪れようと近くまで行ったのだけど、その途中新宿御苑を通った。
噂には聞いていたけれど、想像以上の人、人、人。御苑の入口付近を中心にして、歩道は人が通れない程の渋滞。車道もハザードを焚きながら車内でポケモンする姿も。

これは凄いな。。。と思いつつ、御苑反対側のカフェを覗くとガラガラ。これには驚いた。「珈琲でも飲みながら、ピカチュウでも待とうか」なんて感じで、テラス席に着く人も多いかなと思っていたのだけど、予想を越えて店舗に入る人は居なかった。

とはいえ、動き続けるということでもなく、歩道の端に寄って滞留している。


実はこの現象はデータに出ていた。

ポケモンGOのハンターは店舗に入るのか? リアル店舗の顧客傾向分析サービス「ウォークインサイト」の分析より 【@maskin】
リンク先の分析によると、店舗の前の交通量は増えているものの、実際に店舗に入る客数は変化が無い。(データ上ではむしろ減っている)という結果。

歩く人の気持ちの中に「長居する気はない」と考えているのと、「移動すると出会う確立が上がる」感じがするという感覚なのかなと。実際にプレイしていると、同じ場所に居るよりも、狭い範囲内ながら動きたくなる。

「ポケモンが移動してくる」のではなく、「人が移動する」というゲームだからこそ、一つの場所に留まることを躊躇う結果だと思う。

こう考えると、大きな目線で「外食は増えるかもしれない」という点はあれど、「人気の場所近くにある店舗が繁盛する」「特定の店舗が繁盛する」とは限らない。

友達や同僚、恋人達と思われる人たちが「ワイワイ」と楽しそうに会話しながらゲームしている姿が興味深かった。今までのスマホゲームでは、ここまでプレイしながら「会話」の生まれるモノは無かったのでは?

スマホゲームでありながら、実際の世界の中で会話のキッカケになる。そんな立ち位置としては面白いと思う。

ただ、それをプレイする人たちを巻き込もうと、他の産業が期待する程の効果を上げるには想像以上の努力か、飛び抜けたアイデアとスピードが勝負だと感じた。

2016年7月25日月曜日

必要なもの、不必要なもの。ほんとに?

例えば、先月の秋に50万ほどの貯金があった。友人の車屋さんに気になる在庫が入ったので、それを30万で買った。駐車場が月々3万。
そのクルマで気になっていた「Anyca」という個人間でのカーシェアサービスに登録した。SNSやアプリ上での見え方や写真を工夫して、5回/月くらいの利用回数があった。貸出と返却に時間を取られるので、時給にして2,000円/時くらいの計算で考えて、1回の貸出は5,000円をミニマムにした。すると、だいたい月に25,000円程の収入があった。

購入したクルマは全く別のタイミングで僕が乗車中に追突事故を受ける。これが無ければ、たぶんリセールとしてヤフオクで35万くらいにはなっていたと思う。30万は下らないという感覚。(実際に他車のケースでは購入価格以上で販売という経験も複数ある)


すると、月々5,000円の出費で事実上クルマが手に入ったということ。


「え?赤字じゃん」という話もあるかもしれないけれど、この月々5,000円の出費で気になるクルマにいつでも乗れるという権利を得られ、所有する楽しみも得られ、そしてAnycaを通じて、普段では出会わない様な世界の様々なクルマ好きに出会うことが出来た。そこから仕事にも繋がっている。

投資としてみるとどうだろうか?リスクとしては月々5,000円の出費。1〜2回外で食事したり飲み会に参加すれば消える金額。数時間でね。それを30日間機会を得られるとするならば、メリットが大きいと感じた。

「事故のリスクがあるじゃん。実際事故られてるし」という話は、その時用事で移動していたので、そのクルマが無くてももう1台のクルマで出ていただろう。ということは、事故リスクはほぼ等しい。

そもそも、その事故云々のリスクを理解した趣味ではあるので、その点は他の趣味にも当てはまる話だから、特別なリスクということでは無い。


「お金は道具」という言葉がよく分かった経験だった。


そう、手元にあったお金を貯金して置いておくのも、色々と経験して結果的に手元に残ったお金が変わらないということもある。これを実感した。

「生活に不必要なモノ」と決めつけて、ただ減っていく数字を眺めるよりも、色々な経験を得ることが、自分への投資であり生活も仕事も豊かにさせるものだと思う。

「それ本当に必要なの?」と問う様な【節約】的な情報は多々あれど、お金は貯めこんでも自分を豊かにはしてくれない。むしろお金を道具として使うことで、様々な経験を得ることが出来る。
これは趣味でもなんでも良くて、「自分が楽しい」「嬉しい」「笑顔になる」という事へ使うのが良いと思う。

その場だけで消費して終わってしまう。そう感じることもあるかもしれないけれど、実は色々とモノゴトは繋がっていて、経験した人にしか分からない世界がある。
その時に発揮できるのは、経験した人の強み。

そこからまた得られる対価が生まれる事もしばしば。
その時に、結果的に手元に残っているお金が一緒であるならば、経験した方が良いのではないだろうか?という話。

クルマに関しては「Anyca」を上げたけれど、たぶんどの分野にもそうした仕組みなどがあるはず。探してみても良いし、無ければ自ら生み出しても良い。
自分が趣味として楽しめる場であれば、同じ需要も沢山生まれる可能性は高い。入口のハードルを下げることは、歓迎されることも多い。

需要が広がり、人口が増えれば、色んな意見も増えるけれど、文化として成熟する速度や深みが加速していく。文化として育てることは、こういう事かもしれないね。

ちょっと話が外れたけれど、お金は貯めこむより活躍させた方が良いよ。
というありきたりな言葉を自らの経験からの話を紹介しつつ結び。

旭川で聞いたノミの話と、最近出会った衝撃的な10代の話。

監視されている訳ではないけれど、社会のルールという言葉で縛られているのは日本人特有の民族性なのかな?

「立派な人間であるべき。」よく言われた気がするのだけど、これは正しいかは分からない。ただ「他人に迷惑を掛けてはいけない」それは正しいと思う。自分が嫌だと思うことを他人にすべきではない。

今は分からないけれど、小学校の「道徳」やテレビでもマンガでも「正しくあれ」みたいなそんな言葉を繰り返し受けていた気がする。


いつも定期的に思い出す話があって、それは旭川で聞いたこんな話。

ノミは自分の大きさの百倍とも言われるけれど、シャーレに閉じ込めるとどうなるか分かるかい?しばらくはコツン、コツンと天井に頭をぶつけるんだけれども、そのうち音がしなくなる。天井に当たらない高さを覚えて、その内側だけで跳ねる様になるんだよ。
そして、話はここから。そのシャーレの蓋を取るとどうなるか分かる?もうシャーレの内側の高さまでしか飛べないんだよ、飛び方が分からなくなっているんだ。

人間も一緒かもしれないよって思う。義務教育がどの程度必要なのか分からないけれど、学校以外で学ぶことの重要性を社会人は実感しているんじゃないかな?

多くの子どもたちは、学校の先生を選べない。正しくあれと掛けられた言葉が、もしかしたらシャーレの蓋になっているかもしれない。なんとなく子供の頃から洗脳を受けた形で、飛べないノミになっているんじゃないかな?

反抗をしても、結局はその蓋の中に放たれたジャンプ力しか無いんだよ。

何が正しいか?
「他人へ迷惑を掛けるな」は正しい言葉と僕は思っている。その上で「自分の気持ちに正直に生きること」が一番大切な言葉だと思う。正しいと思っている。

他人の期待に沿ったところで、誰もほめてはくれないし、自分の将来への責任をすべて持つ訳ではないんだよ。
そして、多くの場合は声をかけた側が先に居なくなって、誰も居ない自分だけが生き残るんだ。そうなった時、誰の為にその期待を守り続けるんだろうか?

それが正しい人生という人もいるだろう。ただ、他人の脚を引っ張っては欲しくない。

世の中いろんな人がいる。色んな活動があって、行動があって、生き方がある。直接的な迷惑を掛けられていないのであれば、ネットやテレビ、雑誌でピックアップすべきではないし、それを見て腹立てるべきでもない。



とある企業のインターンの顔ぶれを聞いた。想像を超えていた。
大学へは行かず高校を中退して、自らプログラマーとしてコンペを渡り歩いている人物だったり、他国で独自のイベントを営業から運営まで回してしまう大学生など。

たぶん自分を信じて突き進む勇気と強さしかない人たちだと思う。誰の期待もない、あるとすれば自分の期待と好奇心。自分を信じる力がそこまで動かしているのだと思う。


学校が悪いとは言わない。家庭の教育が良いか悪いかもわからない。だけど、常に自分の気持ちに正直になりながら、突き進む生き方が正しいのだと僕は信じている。

アートについて考えさせられた日

アートは生活を主に精神面で豊かにするものだと思う。生活の中にあることで、単純に好きなもの美しいモノに囲まれる。そしてそれを個人として所有(独占)できる幸福感。

気持ちにゆとりがある人じゃないと買うことは出来ないと思っている面もある。生活に困っていなくても、生活での優先順位がけして高いものでは無いから。

アーティストを応援するというパトロンとしての視点も、お金を持っている人が必ずしも持てるモノではない。

アートは基本として直接的な機能を持ってない物だし、生活での絶対的な位置づけとして普段から候補に上がるものではない。


美術館で好きな作品に出会って、その出口にあるショップで「模写」が売っていたののだけれども、ひとつとして良い物が無い。絵自体は良くかけているのだけど、本物を見た数分後に眺めると、もうそのオーラの無さに恥ずかしくなってくるモノなのだ。
でも、何かしらの欠片を持ち帰りたくて、昔はポストカードなんかを買ったりしていたけれど、それも全く役立たず、結局は見たくなった時に本物に会いに行くしか無いということを知った。

アートとしても生活の中に入り込む方が、本来は経済的に回り始めるはず。というより、アーティストも生活としてお金が必要なのだから、どこかで経済貨幣との交換を行う必要がある。

アート作品はギャラリーなどを通して、お得意さんに売られることが多い。ギャラリーの方の信用度の重要性が分かるポイントでもある。多くの作品を売ることが出来る人は、強い信頼を持っている人と置き換えても良い。

アート業界のビジネスは難しいのはここ。

また、「投資」として買う人もいるだろう。海外でのアートの取扱はこの視点が大きそう。コレクターは作家を応援する上で、作品の価格は価値判断として分かりやすい数値だと思う。買った作家の作品が上がる度に、オーナーは喜ぶのだ。
アート自体に価値があるのか分からないけれど、その価格が付くのであればその価格分の価値があるのだろう。

言葉で説明しにくい「アート」が一言で価値を示す瞬間。

特に投資目的でなくても、その作家が活躍したり、高価な価格で取引されている話を耳にするのは嫌な気持ちでは無いだろう。

という様なスタイルをぶち壊したいと思う人達はある一定数いる。それが悪いということでもなくて、「もっと多くの人の生活の中にアートが入り込めば良いのに」という純粋な気持ちから。



しかし生活に必要の無いものを、その価値を見いだせない人たちに向けてどう手に取らすのか。多くは「生活にあっても良いモノ」として変装をさせている。
スマホカバーやTシャツが代表的なところだろう。先に上げたポストカードもそうかもしれない。アートが無理やり生活に必要な機能を持つ格好となる。

アートを生活の中へ持ち込ませようとすると、作品そのものを売り込む以外では、この偽装をすることになる危うさがある。そうなると、もうアートなのか全く違うものなのか、判断が難しくなるのだ。

もちろん「アートを生活の中へ」という思いが悪いことではないし、どちらかと言えば実際に自分で作品を買うようになってから、他の人達へも薦めたい楽しさでもある。

でもスマホになった作品は、もう既にその作品ではない。この心地悪い違和感を言葉にすることは出来ないだろうか。
スマホカバーとして素敵なモノであったり、Tシャツとして素敵なモノは、それぞれのジャンルでの良い物であって、柄やデザインとしてプロダクトとの相性が良かったということだろう。じゃ、作品としての一点物のスマホカバーやTシャツはどうなのか?プリントではなく、手書きならアートになりうるのか?

実は僕の中にも答は無い。これは誰もがそれぞれ答を持てる質問なのだと思う。そして更にそれは全て正解だと思う。



アート視点での理想と、ビジネスとしてサスティナブルであること、利益を生み出すことという部分の相性が曖昧になってしまうのは、アートについての思い入れが強いからだろうか?

そもそもアートって何なのだろう?
社会が生み出す表現なのか、代弁なのか、作家個人の叫びなのか。

アートに正解が無いように、色んな形があって良い。ただ「置き換える」という行為だけは、やっぱり違うかな?って思う事がある。その表現、主張にあったフィールドが必ずあるのだと思うから。
その選択された先が、プロダクトということであれば、ビジネスとアートの接地点として面白いポイントだなと思う。

良い作品、悪い作品がある。
本当にくだらない作品もあるけれど、それをひとつひとつ指摘するのは難しい。

だから誰もが心から「良い」と思う作品に出会えることが大切で、それが生活の中にあるアートという理想への第一歩なのかもしれない。

アート作品、買ってみると面白いよ。
ただ、けして駅前で美人のお姉さんから勧められるままに、プリントされた作品を評価以上の価格で買うことだけは避けて欲しいけれども。

イルカの絵も好きなら悪くは無い。売り方と押し付け方、そしてその価格が問題なのだと思う。適正価格で購入出来れば誰も文句言わないのではないだろうか。でも、あの売り方が「アートを一般の人の生活の中へ」というシーンを一番生み出している気はしている。

クルマとの対話。生活を共にするには、そのクルマが生まれた国の文化を知ることが重要。

クラシックカー。なかでもネオクラシックは、これから上がるだろうという手前の車種を指すことが多いから、値段も手頃でメーカーや新車価格などを問わず身近な存在。

どこからクルマに手を出すのか?というのは難しい。
僕が最初に手を出したのは20歳前の頃に、12〜3年落ちの中古車。当時はクラシックでもなんでもないのだけど、まだコンピューターがガッツリ入ってる時代では無かったから、針金一本でパワーアップしたり、そんな誤魔化しの効くクルマだった。

もちろん故障もするけれど、それによって自力での修理(今で言うならDIY)を覚えた。他の車種の部品を加工して付けるなんてのも、この辺りから経験した。

なので、この時代の国産車の故障はある程度予測が付く。場合によっては多少の修理も可能だ。今となってはこの時代のクルマがネオクラシック。
初代CR-Xやマイティーボーイの時代。今ちょっと乗ってみたいよねって感じ。

外車ならE30や、190E、930の時代と言えば、実感が湧くかもしれない。

この時代のクルマに、何の知識も無く飛び込むのは恐いなと。本人の度胸次第だけれども、JAFに頼りきってしまうと負担も掛かりそう。あとは選ぶ車種、メーカーによっては、マイナーな車種もあり、当たり外れもあるから、まずは手頃なトコロから身体と頭を慣らして行くのが良いのかな?なんて思ったりも。

逆に全く初めてのクルマがそこだとすれば、それは強みになるかもね。

E30の出火も経験したけれど、大枠の原因(国産で考えるなら信じがたいが)と、対処が分かったから不安もそれほどなく、結局は配線の引き直しとヒューズボックスの交換を自力で行った。面白かったね。

ある友人が、「共通の知人がマニアックなメーカーのネオクラシックへと脚を踏み込もうとしている」と不安がっていた。確かにもっと同じ年代、同じ国の他車種、もしくは他メーカーを薦めたくなる話。


個人的に外国車は、フェラーリ、ポルシェ、アウディ、BMW、ウエストフィールドと買って乗ったけれど、なんとなく感じたのは「その国の文化の壁」だった。
「なぜ、その処理をしたのか」「その判断の根拠は?」など、日本人の考える効率や素材性質を無視した扱いが随所に見られた。

クルマを乗りこなすのは、そのクルマが作られた国と文化を理解することなのだと、最近分かり始めた。そのクルマの故郷の人たちを理解して愛すること。そこから愛車との生活が始まる。

国産車の安心感は、ボンネットの中を見ても、ダッシュボードの裏側を見ても、やはりそれを作った国の文化がわかるからなのだと思う。

説明書が無い状態で配線を追いかけるだけでも、色々と作りての声が聞こえてくる。

僕にはまだ外国の文化も風習も距離があるようだ。
もう少しクルマと付き合いながら、異国の文化を理解し付き合う姿勢が必要なのだと思った。また素敵なクルマと暮らしたい。

もう少し生活が落ち着いたらまた何れ向かおう。

2016年7月22日金曜日

日本でもポケモンGOがリリースされたね。

早くもアクセスは増えてるみたいだけど、DLはスムーズでした。
http://pokemongo.nianticlabs.com/ja/

Ingressのポータルそのままにフェイスが変わって、イベントが増えた感じ。一般受けに化粧直しという感じかな?

FacebookやTwitterのタイムライン覗くと、驚くほどに皆ポケモンしてる。とりあえず使ってみるのが周りの反応。退社時のサラリーマン達の反応が今から気になる金曜日。

小学生は夏休みだから遊びたい放題って感じなのかな?大学生はどうだろう?

思った以上に電池の減りは早いね。




Pokémon GO
  

嬉しい感情は口にだした方が良いよ。理屈は要らない。

「孤独のグルメ」はマンガが原作なのね。テレビで見かけて、同世代で夢中になっている友人もチラホラ。好みの問題だけど、「ここのコレは旨い」って話は好きだし、それを目当てに土地を巡ったりするのも共感はする。良いよね。

ただ、ブツブツ言ってるあのくだりが嫌い。美味いものは「旨い!」で良い。解説や食レポ気取りのコメントは要らない。



食事は誰かと食べるが一番楽しい。これは家族でも恋人でも友達でも、やっぱり1人で食べるより楽しい。楽しい感情は美味しさもアップさせてくれる。栄養の吸収率も変わるんじゃないか?って言う人も居る。なんとなく分かる。

「美味いものはつべこべ言わずに食え」って気持ちと、なぜか上から目線な感じも嫌よね。料理人に対して失礼だなって思ったりもする。
社会的に皆が評論家になってしまっている時代だから、フィットしているのだろうね。

twitterやblogで評論家になれる時代。

斜めに見られていたコメントだったりはするけれど、「孤独のグルメ」に関しては完全に正論化されている感がある。

自ら「孤独」と言い切るのもどうか。悦に浸って面倒くさいオヤジ臭がするではないか。
酒を飲まない設定だというけれど、あれだけ自分に酔っていれば酒も要らない。



食事の楽しみ方のひとつなのだろうと理解しつつも、やっぱり誰かと食べる飯が好き。高級料理じゃなくていい、簡単に作られた家飯で良い。

疲れたサラリーマン、田舎から上京して頑張ってる、中年という年代、食にはちょっとこだわりがある。ハードボイルドに憧れて、バーのカウンターでしみじみ飲む感覚で食堂で飯食ってる感じ。
みたいな空気が、うわぁーーーーってなる。そんな私も中年です。

2016年7月21日木曜日

利益によって失われる安心感と信頼性。民泊にとっての優先順位。

なぜベルリンは断固「民泊」禁止に踏み切ったか〜全面解禁に向かう日本に"民泊先進国"は警鐘を鳴らしている
日本橋エリアはワンルーム程度と思われるマンションが建つと、「完売御礼」の看板がすぐに掲げられる。その裏にはこんな事情もあるのかな?

民泊前提でマンション全オーナーが投資しているなら良いのだけど、そこに普通に住もうとしている住人が居るとすれば、結構な割合でトラブルは出そう。
特にオーナーが外国人とすれば、なかなか連絡も取りにくく文化も異なる。そこに大きな壁が出来上がる。

民泊に可能性は感じているし、Air bnbを使用している人たちの感想は、その街に住んでいるからこそ、色んなローカル情報が得られる。という良いモノもある。ちょっとした観光大使としての役割も果たしている。

海外でも国内でも、ローカル情報はありがたい。ただそれはそこに住んでいるからこそあるもので、投資された物件ではそうしたメリットは薄く、ただホテルなどより安いというメリットしかない。

そういったことを目的とするユーザーが増えれば、やはり荒れてくるのも事実。貸し借りとクリーニングを代行する業者も増えてきている中で、ちょっと恐さも生まれるよね。

顔を合わせることで得られる安心感や、維持できる信頼性の高さがある。投資という利益の絡む部分が表向きになってくると、この土台が揺らいでしまう。

さて、オリンピックに向けて国内外で旅行者が増えるタイミングを迎えるにあたり、東京はどう進化して、どんな未来を迎えるのだろうか?

データサイズと情報量。動画は時間を奪うのか?

「テキストより画像データは重い。それに比例して言葉以上の情報を与えることが出来る。」昔誰かから聞いた言葉。百聞は一見にしかずをデータサイズで示した感じ。

ネット回線が早くなることと、処理出来る端末の頭脳がグレードアップしていくことで、テキストだけの情報から、画像が添えられる事があたりまえとなった。

これからは動画がもっと主流になっていくだろう。
今でさえ昔以上に動画が活かされている。ここで常に主導権を握っているのは、受け取る側の力。

如何に発信しようとも、受け手側の準備が整わなければ良い物も届かない。スマホの普及や回線の安定感が増したことで、やっとスタートラインにたった気もする。

「動画は時間を取る」という事を良く言われた。「3分の映像を見るには3分必要となる」という理由。これは最もだけれども、「動画で3分で説明出来ることを、複数の画像や大量のテキストで説明していた。それを読むのに4分かかっていた」って事もある。

動画を視聴する際に奪われる時間。それが結果的に短いということを体感的に知っているのがユーザーなのだ。

発信する側はそれを意識して情報を整理し編集して発信することが大切。
常にメディアは変化しても、編集という仕事は重要なのだ。

大学生と接してわかったこと。

今期、大学にて授業をさせてもらっているけれど、感じたことを色々と。

・一方的に話してると反応が無いなと思ったけど、彼らは色々考えてる。
・まだ経験が無い。自分が何を好きかどうかさえ分からない状態。
・色々体験させると、いきなりアウトプットが増える。
・結構情熱を持ってる。
・社交的だ。
・僕らの大学生時代以上にしっかりしてる。
・でも緊張しやすい。これも経験不足から来る。
・田舎にキャンパスがあるのは不利。
・結構頑張る。
・ほめると気を抜いてしまう。
・面白さを知ると、フットワークは軽い。
・他人からの目を気にする。でも評価を気にする感じではない。
・常にある漠然とした不安を抱えてる。
・企業との連携は距離がネック。
・学生はいろんなことを教えてくれる。

ぱっと思いつくのはこんなところかな。

やっぱりキャンパスが都市部から遠いのは不利だね。色々な現場から物理的に距離があるのを感じる。
企業との連携や、ゲストを招く授業を設定する際に、本当はそれぞれの企業へ気軽に脚を運べるくらいが理想。片道1時間以上あるのは残念すぎるね。

本当の理想は、「今日こんなイベントがあるよ」「誰々のトークショーが無料らしいよ」って話で、授業の合間に抜けちゃうくらいの距離感で学び舎があることだよね。

面白い人には会いに行く。それを叶えるのが距離感だと思う。


でも、大学生結構面白い。まだ何も知らない純粋さも持ちながら、しっかりと考え方を持っていて社会と向かい合おうとしている。

上手く行かない時ほど、自分以外の場所に課題があると認識する。

郊外、地方の商店街で「駐車場が無いから人が来ない」みたいな理由で、大規模な駐車場を先に用意しちゃう動きについてのツイートを見かけた。

ありがちなのは、問題の原因を分析せずに思い込みで行動してしまうこと。この駐車場問題もまさにそれの典型。

自分は正しく、適正な評価がされていないという思いが根底にある。実はそこが大問題だと気付く人はあまりいない。集団となって目を背けた結果が、郊外や地方の集客問題に繋がっている。

良い物、強み、僕は「武器」って呼んでるけれど、自らの武器に気付くのは難しい。内面を見つめること、他者の意見を素直に受け入れる姿勢。様々な要素が必要となる。

自分の問題や課題を知ることは、武器に気付くことにも繋がる。

何かクリアすべき課題や壁があるならば、まずは現状を導き出している原因を探りだすこと。必ずこの原因は関わっている人間側にある。状況はその結果にすぎない。

そして多くの場合は自分を否定するモノゴトがチラつくことになる。ここを正しく受け止めることも必要。

自分を棚の上に起き、他の理由を付けて文句を言うのは、何の解決にもならない上に、遠回りして自分の至らなさを証明することになる。大規模な資金投入などがあるばあい、その精神的なダメージは大きい。

何事も早めに気付くこと。認めることは大切。逃げちゃだめだ。

2016年7月20日水曜日

ようやく100記事超えた。Twitterって始めるとブログやりたくなるんだよね。

一方でFacebookはポジティブメディアだから、あまり意見的な事を書かないほうが楽しく使える気がした。そもそも過去の自分の記事を遡る設計になってないし、検索機能もない。これを「過去は振り向くな。今日の楽しいHappyを投稿しとけ」ってFBからのメッセージだと思っている。

結局、埋もれたまま報われることのない記事をFacebookに投稿し続けたのだけど、使い方間違ってたなーと気づいてこのブログ始めました。

なんだかんだと自分のサイトへもたまに気づいたことは書いてたのだけど、なかなか続かず。やっぱりFb開いたりしてた。

このブログ始める時、過去のエントリーを引っ張ってきたのだけど、沢山書いていた気がするのに30エントリー程度だった。すごく驚いた。

ということで、まずは目の前の100記事を目標にしてきたのだけど、それなりに習慣化も出来て面白くなってきた。

文章は書かないと上手くはならないから、日本語が多少変でもとにかく書いてみている。全体の流れを整えるのが次の目標。

言葉を扱うのは本当に難しい。
だけど、使うことで大きな強い武器となる。

もうちょい頑張ろっ。

先月のケータイ代が2,070円。今更だけど格安SIMのススメ。

先月のケータイ請求が20日に確定。ということで、先月(事実上のスタート月)のケータイ請求が来ましたよ。

基本料金が:月額のネットの基本料が900円。音声通話の+が700円。
ってことで、合計すると1600円。

通話料は10円/30秒
SNSが3円/回
という感じで、合計すると340円。

全てをまとめると、1,940円+消費税だね。


全然電話掛けないの?っていうとそうでもなくて、LINEやFacebookの通話機能をメッチャ活用した結果となりました。
Facebookのテレビ電話機能を使って授業など行っていたのだけど、30分繋げても500MBくらいでした。音声はクリアでそんなにストレスは無い。

通話で言うと、Facebookの通話はたまに酷い時がある。都市部の方が多いかな。でも、高速移動中とかも問題なく通話は出来る。

あと、もちろんかかってくる電話は取れるから、なるべくかかってくる電話を取るようになりました。相手にもストレス無くなったかもね。


現在使ってる機種はiPhoneSE。iPhone6を下取りに3万程度で入手。

今後は2,000円〜3,000円くらいかなと仮定すると、auの電話代が月々5,000〜7,000円前後だったから、3,000〜4,000円くらいは浮くのかな。

ガラケーなのに、30,000円くらい払ってた頃が懐かしくもあり、恐ろしく思ったりもする。もっと早くキャリア抜ければよかったよ。

タイムラインは社会じゃない。自分が都合よく作り上げたSNSは自己中の理想郷。

SNSは中年しか居ないんじゃないかな?とか思ってしまうこの頃。この感覚に、それほどズレは無さそうだけれど。

FacebookもTwitterも自分のTLは自分で選んだ形なので、同世代が多くなるのは当たり前というか。ただ、そこに依存し過ぎると、自分の考えに近い人達が世の中に溢れてると勘違いすることがあるのかなって。

視野が狭くなると、というか中年くらいになると体力的にも?情報を脚で得ることを避けはじめて、なるべく心地よい場所や手軽な方法を選んでしまう。
SNSは最も都合の良いメディアで、なんとなく社会と繋がっている感じがする。だから、TLを眺めていると社会と接している気になってしまう。これが幻想。

テレビに集中しちゃうのもそうかもしれないね。チャンネルは数える程度なのに、そこで発信される事が世の中の全てに思えてしまう。新聞は枚数あれど、やっぱり限界はあるよね。新聞社の数は本当に少ない。

何を発信し、何をあきらめるか。そこに各メディアの色も出てくるのだけれども、そういった事が限られたボリュームでしか発信出来ないメディアの弱さかもしれない。


で、SNSに目を戻すと。
例えばFB。色々な公式アカウントにコメントしているのを辿ってみると、どうも中年〜高齢者層が多そうな気がする。もちろんジャンル毎に顔ぶれは変わるのだけど、大概中年層かな。住まいは都市部の男性が多く。あと、地方の意識高い系が多い気がする。
女性も年齢が上がると参加者が多い気がするな。実際そんな数字もあるし。

Twitterは自分の言いたい放題で発信してるけれど、それこそTLは自分で作り上げるものだから、心地良い人だったり、反対意見でも視点が同じ様な人たちを集めがちになるよね。見て気分悪くなるような人をフォローしないだろうし。

結局、FBもTwitterも自分の意見と近い、視点が近い人ばかりとなる。結果的に「世の中は同じような事に問題意識を持っている」という考えになって、「それが反映されないのは、世の中が狂ってるからだ。こんなに意見ばかりなのに」と、偏った情報で主張したりする。ちょっと恐い。


世の中色々な考え方がある。全く理解出来ないこともあれば、そもそも気が合わない人もいるよね。一緒に居るだけでイライラしちゃう人とか。互いに悪い事はしてないのだけど、それは仕方ないこと。諦めることが互いの為な気もする。

都合よく、自分の理想的に作り上げた社会こそ、TLの中に広がるワールドなのだよね。
だから居心地よいのも分かるし、なんとなく自分の考え方も盛り上がってきちゃう。結果的に偏った考え方が加速してしまって。中年層の面倒くさい感じにリンクしちゃって、もう手がつけられないワガママワールド。

ある意味その社会では誰もが王様になれる。自分に同意する人たちに囲まれる世界だから、気持よくて仕方なくて、恐ろしい言葉も加速してたりする。


そのバーチャルな世界から出れなくなっちゃうのって、なんかマンガの設定であったよね。あれ、完全に時代が追いついちゃっていて、気づけばそのデジタルの世界に自分の居場所作っちゃってる感じ。

中年が依存すると、ちょっと厄介かもしれないぞ。

2016年7月18日月曜日

自分が活き活き出来る環境を、早く見つけておいたほうが良い。

ベーシックインカムについては賛成派なのだけど、正反対の考え方も良いなと思った。

昨日老舗の中華料理店へ入ったのだけど、そこで80前後と思われる女性が楽しそうに給仕していて、いきいきと働く姿も良いなと思った。本人が望むなら、いつまでも働けるスタイルも良い。

もちろんベーシック・インカムと同居出来ると思うけれど、「ある程度貯金して、老後に備えて〜」とか考えるよりも、必要なだけ賃金を得つつも自分が活き活きとした時間を過ごすという、生きるのに大切な時間の使い方がありそうだな。

自分の親も見ていてそうだけれども、サラリーマンとして家と会社を行き来して、閉じた場で過ごした後の生活は戸惑いも多そう。ちょっとした浦島状態なのでは?
自分の目の前の時間に集中し、一生懸命働いた後に家での隠居生活を迎えると、妻も歳を重ね、子どもたちも大人になっていたと。

父へは尊敬と感謝の気持ちしかないけれど、だからこそ自分の時間をもう少し大切に生きて欲しいと思ったりもする。出来ることがあれば、子供の立場ながらに応援もしたい。

ただ、仕事を終えて隠居生活を迎えた瞬間に、一気に老けこんだのも事実。やっぱり緊張感の糸が切れたのかもしれないな。

そう考えると、働き続けることが生きがいという人は、生涯働き続ける事が出来る環境こそ素晴らしいのでは?と感じる。


ベーシックインカムとの同居を考えるなら、それこそ自分を活かす人間が社会に進出出来る可能性もあるかもしれないね。
それこそ給料を気にする必要も無いわけで、本当の意味で仕事に集中することが出来るのかもしれない。

仕事のノイズの一つに収入額ってある様な気がする。他者との比較もしやすいし、労働時間に対する金額も見えやすい。ベーシックインカムにより、プラスアルファ分の給料と思えば、固定金額が確保できているだけにノイズに振り回されにくいのでは?とか。


何より、昨日の中華屋さんは、その女性のペースで動いていたし空気が良かった。お客さんもそれぞれ自分で出来ることは自分で動いたりして、その感じも良かった。
「死ぬまで働かせる気かよ」という意見は、仕事に面白さを見いだせてないからであって、誰もに当てはまる意見では無い。自分が心地よい環境をつくれないからと、他者へぶつける意見ではない。

自分が心地よいと思う環境、活き活きと過ごせる環境は、出来る限り長く保証されてほしい。年金が期待出来ない今となっては、目指す社会はそこだと思う。

だとしたら、自分が一生続けられる役割を見出すことが、人生を充実させる大切なことなのかもしれない。


社会に文句を並べる前に、自らの立ち位置を整えることが求められている。

化石となったCDメディアを売る方法と買う心理

数週間ぶりにテレビをつけたら、一般人の家を訪れるという番組がやってた。出てきた1人がなかなか複雑な背景を持った人だったのだけど、興味持ったのはその人ではなく、その人が夢中になっているという「AKB48」のことだった。

新しいアルバムを複数枚買ったという。理由は収録されている曲がそれぞれ違うという。ジャケットの違いもあるだろうし、コレクション的にという理由もあるだろうけれど。

音楽をCDで買うことが当たり前でなくなったのはいつからだろう。少なくとも10年前はiTunesで買うことを否定していたので、まだ僕の中では浅いと思う。
iTunesに限らずだけれども、ネット経由で音楽をDL購入する行為で一番大きな変化は「一曲だけ買うことが出来る」ってことだったと思う。

ファンであれば新しい曲やアレンジバージョンを含めてアルバムを全て購入するだろうけれど、CMやドラマ、映画の主題歌として「いいなこの曲。欲しいな」って人には1曲だけ買えるのはとてもありがたい。
それによるハードルも下がるから、購入が気軽な分、売上は上がっているのではないかな?と思うこともある。


アルバムはそれ自体が作品だった


2000年頃に居候状態でお世話になっていたミュージシャン。新しいアルバムを作る時に「曲と曲の間の余韻。無音の時間さえも考えてアルバムを作っているのに、iTunesに読み込むとバラバラにされる上に変なフェードで繋がれてしまう。なんなんだこれ。」って怒ってたけれど、「これからはバラバラに1曲毎に成立する作品作りが必要なんだな」と切り替えもすごかった。

アルバムって一枚のCD自体が一本の作品だったのが、パソコンに取り込んでから聞くというスタイルによって、バラバラにシャッフルされた上に他のアーティストとミックスされて聞くことになったり。
それまではカセットやMDに編集しないかぎりは起きなかった現象が、無意識にPCが行ってしまう。これは防げないから、それに対応する曲作りを。という展開。


CDは化石だったことを思い知らされた


一方でこんな話。
義姉がとある大学施設内で招待されて作品作りをしていた時に、現場を見学に来ていた学生がCDウォークマンを指して「これ何ですか?」と。
諸々を説明すると「PC要らずでCD聞けるんですね!便利」という反応だったと。Twitter内でもネタになるこんな話も、対象が既に大学生ということと、本当に身近で起きたことに驚いた。


コレクションとして成立するのは物理的存在


CDが一般的で無い時代、もはや古い化石のジャンルへと片足踏み込んだメディアが、コレクションとして1人が複数枚購入する。AKB48ファン。
もちろん握手券やら投票券やらの話もあるのだろうけれど、それも含めてアナログって強いなって感じたりもした。

物理的に手にできるモノが、ファンとしてはありがたいのかもしれない。そういう「触感」までも愛しくなるのがファン心理と考えることも出来るかもしれないね。

食べた経験がある人しか、その美味しさを知らない。

常識って自分の身の回りの範囲のことなんだよね。だから、全く違うフィールドを持つ人達と出会って「常識が常識でない」を知ることになる。

学校で授業を持たせてもらうことで、いくつか実験的に思い浮かんだ事を端から試しながら進めてきたのだけど、ここで実感したのが「知らない事は分からない」ということ。
何を言っているんだ?という感じだけれど、その文字にすると当たり前の事が全く理解出来ていなかった。


授業で「面白い情報があるよ」「楽しい情報だよ」と与えても全く理解出来ない。初めは『興味が無いのかな?』程度に感じていたのだけど、全くそうではないことに気づいたりもする。

企業との連携を授業へ持ち込んでみたのだけど、その企業名は知っている人は多くても、その対象となった商材への興味がいまいちだった。
そもそも、その企業に対しても「あの有名な会社だ〜」くらいの感覚で、その企業の業務内容や哲学などは知る由もないし、一緒に取り組む体制が作れてなかったなと反省する。

「興味を持てば各自調べたりして、貪欲に入り込んでくるだろう」と考えていたのは失敗で、そもそも調べるほどに興味を持ててなかった。『知ってる=興味を持つ』では無いし、自発的な検索以外は負担でしかない。
彼らは与えられるモノに対して、抵抗なく受け取るけれども、自ら一歩踏み込むことはしない。


また、社名は知っていても、その企業が持つ魅力を知らない。知らなければ調べるという事も、まず一段ステップを踏む必要がある。

企業と一緒にプロジェクトを進める楽しさも、体験したこと無いから面白さが想像出来ない。だから楽しいのかどうか分からないのだ。


企業の担当プロジェクトが行うイベントに学生を特別に参加させてもらった。その企業が関わる商材を体験して全てが変わった。「こんなに楽しいのですね!」「みんなにも体験してもらいたい!」と。そんなレポート。

知れば夢中になるし、どんどん踏み込んでくる。そこからの動きは、僕が初期に望んだ動きにようやくなった。


無意識に自分の常識で動いていたなって反省をする。大学生という全く異なるフィールドに居る人達から教えてもらったひとつ。
年齢も僕の半分なのだから、経験も約半分と考えても良いかもしれない。ただし、僕が知らない経験をしているということもあるから、どちらが優れているとは思わない。教えることもあれば、教えられることもある。


学校での学生と講師という関係は不思議なものだ。


専門的な知識は経験と共に持っている。自分の目で見てきたことは、しっかり伝えることが出来る。僕に出来るのは一種のサバイバル術だと考えてる。

でも、時代時代で必要な手法や、使い方を知るべき道具の種類は異なってくる。だから本当に伝えられることは根本にある考え方なのだと思う。
それも「僕はこう考えてきた」という事実であって、これがそのまま役立つのか、反面教師となるのかは学生次第。


だから、「こんな楽しいことがあるよ」という情報を流すだけでは全く意味が無いのだと知った。それは僕の主観であり、僕の周りの人たちが興味を示す情報なだけであって、それは常識では通用しないモノゴトなのだ。

まず体験させることが大切だと思う。それは必ずしも成功体験である必要はない、食事で言うなら「味見」で良いのだ。

今後に機会があるとするならば、その「体験」をどう与えることができるか?そこにターゲットを絞ることが大切だと考えた。

Youtubeはこれから、どちらかと言えばスタート期。見たい動画と発信したい動画を結ぶこと。

企業側が発信したいという動画がある。一方でユーザーが見たいという動画がある。そこが合致すると素敵だと思う。

どんな情報でも一方通行になるのはバランスが良くなくて、互いにメリットがあることが大切かなって思う。受け手側は何を得たいのか?受け取る情報の順序もあるかもしれない。


Youtubeの事情はどうなってるの?


Googleに聞けば、Youtubeの視聴はスマホ・タブレットが大半を占めるという。若手の層から普通のメディアとして浸透して来たからかな?今パソコン使えない若手って話も聞くし、この辺りは憶測でしかないけれど、学生時代の家での過ごし方ってゴロゴロしながら何かしてる事が多いイメージ。それにはスマホって都合よいデバイスなのかも。
なんでもできるしね。

気づけば検索結果にもテキスト情報と共に「動画」も出てくるし、何かを調べる上で動画まで確認することが増えてきたこと。自分の習慣ではあるのだけど、いつからこうなったかは良くわからない。
でも、YotubeやVimeoはチェックしている。PV、CM的な物から、How to系まで様々。

ちょっと前まで映像コンテンツは「30秒で簡潔に」みたいな話もあったけど、今や内容が重視されていてユーザーは長さについて重要視していない。
人気の動画に尺に関する共通点は無い。(ジャンルによっては30分〜60分みたいな番組も)それよりも情報を出すスピードだったり、内容が確信に触れている物だったりする。

また、解像度やリッチな編集もPVやMVみたいなコンテンツ以外は気にしない。スマホで見ても視認性が高い撮り方(小さい画面でも分かりやすく、見たいものに焦点を合わせているか否か)が重要とわかった。

だらだらとせず、一定のスピード感は必要だけれども、ユーザー側も適度に早送りしている感じはある。


動画って腰が重いよね。だから色々期待しちゃう。


発信側は「ユーザー(顧客)」と繋がりたいと期待するけれど、新規ユーザー側はもっとシンプルに欲しい情報から辿ってくる。検索や関連動画として、その動画にたどり着くことが多い。

やっぱり入口としては「求めてる情報」「興味ある情報」であって、その先に「企業」や「人(キャラクター)」に興味を持つ流れが自然だよね。

その流れを上手く作ってあげたら、動画活用した企業側のブランディングは期待出来ると思う。これ、特にプロに頼まなくても明るくキレイに取れるスマホを持っていれば、ノウハウは蓄積出来ると思う。

地方都市の中小企業向けに「Youtubeを活用しよう」って、映画監督が行脚して回っていたけれど、映像作品を作ろうとするとこの焦点ずれる可能性大なのだよね。

自己満足映像を見せられても、たぶん数秒で離脱する。企業のPVなんて最初から見ようと思って見に来る人は居ない。(あったとして、web上でバズった個性的な作品だ)
だから、Youtubeコンテンツを活用するなら「アナリティクスですよ」とGoogleが言うんだよ。
データから自分のコンテンツについて何を求められているのか?何を評価されているのか?それらが分かるヒントが隠れている。


他者からの見られ方がわかる経験に繋がる


自社のノウハウや自慢のポイントを、素人が演出を加えること無くアーカイブを蓄積することで、今社会が求めている物や強み武器が見える。

「これからはインターネットだ!」と十数年前に言っていた頃が懐かしいが、今こそ「これからは動画だ」って時代になってきたのかも。


ようやく動画コンテンツが一般ユーザーの日常になったのかもね


「いやいや、遅いっしょ?」って言われるかもしれないけど、それは制作側であって、リッチなネットに触れてきた人たちだからの意見。
情報に早く、新しいもの好きな人たちが消費してきた部分なのだと思う。パソコンもスマホも「使えれば良い」「可愛ければ良い」という人たちが、普通に動画を使いこなして消費するようになってきたのは、ようやくこれからって部分ある。

今はユーザーの生活に一般的に定着してきたと思う。だから、ここからどのように動画を使っていくか?そこに注目するのは正しいのだ。

ポケモンGOと個人情報の不安

個人情報については僕はパーソナル情報について比較的公開。仕事柄連絡先はフリーにしておかないといけないし。怯えるよりも開き直っている方だと思う。

Twitterで「ポケモンGOに不安を感じてる人がいる」というツイートを見つけて調べてみたらGoogleアカウントでログインすると「フルアクセス」で情報にアクセスされてしまうのでは?という話があった。
この「フルアクセス」については表記的な問題であって、実際にはアクセス出来ない状態だったらしいけれど。

もう一方で調べながら気になったのは「自分の行動範囲がバレる」というもの。(交通事故や怪我などは、ちょっと今回は別話題)
この「行動範囲」については色々ありそうだなと。

ツイッターを見ていると分かりやすいのだけど、既に多くのプレイヤーがスクリーンショットを投稿している。ゲームに夢中になってレアなキャラを見つけた時に撮ったものだったり、「ここにはこんなに居る〜」という感じで撮ったものだったり。
どちらもゲームに夢中なあまり画面の中のキャラに集中しちゃうのだろうけれど、思った以上に景色やら地図などが見えてる画面が多いね。

気にしてない人は特に「自宅で無ければ」という気持ちもあるかもしれないけれど、気にしてる人は気になっちゃうかもね。

遊ぶ範囲では気にせずで良いと思うけど、SNSなどで共有する場合は(これはポケモンGOに限らずだけど)画像の取扱は注意した方がいいのかもね。


個人的には「ゲーム要素が弱いので、集めるというルーティン作業だけになりがちで、多くの人は飽きるのが早いかも」って記事の一文を読んで。僕はこの層だなって思ったりもした。
Ingressは早々の離脱組。話題に乗るのも遅かったけれど、初心者と上級者が混合のフィールドでは、バランスが良くないよね。何度トライした結果も報われないと、楽しさが失われてしまう結果となりました。

さて、ポケモンGOはどうでしょう?
公開と同時にDLして体験すると思うけれど。



2016年7月16日土曜日

auの解約手続きでauの顧客に対する姿勢が見えた。クソだったよ。

auを解約した。特に2年縛りの期間を意識したワケじゃないから、結構な金額が来たけれど、まぁ予測の範囲内。
色々考えたけど、あの商売の仕方は腹立たしい。

解約の手続きをネットで進めていくと分かるのだけど、ずっと脅し文句が出てくるんだよね。「解約するとこんなに請求が来ますよ(お前が請求するんだろ)」とか、「最終月は◎◎の割引は適応されません(お前がしてないだけだろ)」と、他人事のように「こんなに請求されちゃうよ」と自分がしてる癖に書いてある。
この説明書きを見て腹立って解約加速したけれど。ある意味背中を押してくれたって思えば良いのかな?

顧客の管理なんてコンピューターじゃない。設備の設定や管理だって、出来る限り人間が関わる部分は省いてるでしょ。だから請求なんて日割りどころか、秒単位で管理出来てるはずなんだよね。その請求を月単位に変えて請求するなんてクソだよ。バカにするにも程がある。

客をどう扱うかでその会社の体質は分かるよね。口先かどうなのかも。

今回感じたのは、選択肢が限られている上に完全にブラックボックスであること。手続きや管理なんて客側が見れる部分じゃない。
キャリアで対応してる人は、会社のケータイでない限りは解約した方が良いよ。と思ったので飛び出しました。

パケットという見えないものにお金を払う様になったのはいつの頃からか。
ISDNのスタートからつなぎ放題が一般化して、パソコンのネットは普及した。それまで躊躇していた人たちも、定額ということで飛び込んで普及したよね。
ただ、ケータイだけは明確な「定額」がない。用意されたメニューも、高いんじゃないかなって思う。実感値としてだけどね。

月々5,000円弱払うと、2,000,000円分の月のパケット代が無料になるって話もおかしいでしょ?笑。そもそもの設定が狂ってるんだよ。200万の商品を5,000円で売ってる他業種を知らない。

インフラ握ってる商売は強いね。電気なんかもそうだけど、結構謎な金額設定は多いけれど、そこから抜け出す術が無いということもある。
恐いんだよね。こういうところのサービスに依存過ぎるのは。

2016年7月15日金曜日

バーチャルは、リアルの欲求を解消できるのか?

http://www.gran-turismo.com/jp/products/gtsport/
最近のゲームはコントローラー側も含めて、すげーリアル。
これ買えば「クルマで暴走する欲求解消できる」ということならば、「AVによる少子化」にも一理あると思ったり。
一方で、アニメ関連の話題で出てくる「アニメ好きによる犯行」みたいな話しは全く正反対という理屈に至ったり。まったく異なる方向へ思考が暴走。

実際どこから影響されるかなんて、人それぞれだから、何が人への影響を与えるのか?なんて言い切れないんじゃないかなとか思う。

個人的には「頭文字D」のアニメを見ると、峠に走りに行きたくなるのだけど、ゲームやその他のアニメ、映画などは全く同じ感情はない。逆の反応する人も居るだろうけど、これらは欲求が解消されるというより、刺激されてる例だよね。
実際その欲求までバーチャルで解決できるのか?は個人的に興味あるな。

それが実証されるとするならば、マイカー持つ必要なくなるしね。良いかどうかわからんけど、確実に事故は減るだろうね。益々、デジタルにお金使う時代になるのかな?

欲望を素直に話すって大切

願望ではなく、あえての欲望。
何かと「こんなことしたい」とか「これが好き」とか言う事が多いんだけど、それは、そこから面白い体験に繋がることが多いから。

夢は言葉に出すと実現するっていうけど、話したことを実際に聞いた人の記憶の中で生き続けて、関連する出来事や情報に出会った時に思い出してくれる人間になれれば、必ず連絡くれたりする。だから実現するんだろうね。

仕事にも繋がってるし、遊びや趣味もどんどん広がる。


自分での体験として実感してたんだけど、先日は逆パターンがあった。

学校で授業取ってくれてる学生が「こんなことを将来したいんですよ」って珈琲飲みながら話してて、「あ、あの人紹介したら有意義だろうな」って感じて連絡とってみたら、たまたま近くに来てて、紹介してみた。

そこから先は本人の話なので、会いたい人に会えたのか、有意義な情報を得られたのかは分からないけれど、ざわざわっと話してくれたから生まれた機会だよね。


あと、こんなことも。僕自身がずっと関わりたいって思ってた会社さんがあって、その人のブログで「今こんなことやりたい」ってエントリーがあったんだよね。
「こうすれば実現するんじゃないですかね?」って書き込んだら、「じゃ、やってみましょうよ!」って話になった。僕としても嬉しい出来事だったんだ。
言葉として出してくれたから、僕も提案出来た。求めていることを素直に出してくれる方が、やっぱり周りは関わりやすいよね。



相談なり雑談なりで、なんらか伝えてくれれば、ある程度対応出来たり、近づく機会を紹介出来たりはするよね。でも、情報として全く知らなければ何も出来ない。これは単純な話なのだけど、ここに気付くか否か。

「夢は心のなかで大切に育てるもの」って人も居るだろうけど、言葉にして発信していくことで、ひとりで進めるよりも早く実現するって事はあるよ。
人生って必ず誰かと関わって生きていくのだから、そこ活かすべきよ。

自分の仕事の探し方、知ってる?

自分に出来ることを、他者がやっていることになぞって探そうとしても見つからない。それどころか他者を基準にしてしまうと、自分の劣った部分を見つけてしまう。

当たり前の事。

パッと探して出会う情報なんて、何らかが秀でている人だからこそ自分ブランドが上手い訳で、その人を基準にしてしまえば至らぬことばかりだ。
そもそも、探している時点で自分は何も軸が無いわけで、誰かより秀でた部分に気づいてない立場なのは知るべき。

じゃ、どうするか?
出来ることを見つけるのではなく、ただ動くこと、続けることが大切だよ。



きっと、今の自分に出来ることを探すより、出来ることをするしかないのよ。
字面では同じようなことに見えるけど、同じではない。

好きだから出来ることもあるだろうけど、自分に出来ることをする、続ける。これが自分なんだよね。

他者に憧れて得られることは限界があって、逆に他者が憧れる自分だけの持っている物があるんだよ。みうらじゅんが「ない仕事をつくる」って言うけど、まさにあれだと思う。まだ読んでないから、タイトルからの引用だけどね。



今世の中にある仕事に自分を当てはめようとするから無理が出る。だから自分に出来ることを続けながら、それを職業として確立させる方が自然。肩書っていつも迷うけど、決まりは無いから作れば良い。たぶんそんなのが一歩。

自分を知ることは一番の武器。その自分を知る上で、出来ることを続けることが一番有効。



悩み苦しむのは、他者の基準や定規に自分を当てはめようとしているからかもしれないね。自分の仕事は自分で生み出す。本来あるべきはコレだよ。

それは決して「個人事業主になれ」って言うことではなく、組織の中に加わるとしても、自分は「◎◎です」って言えれば、組織側としても受け入れやすくなる。

経営者視点を持ては、確かに常に有効じゃない


Twitterで見つけたコレから色々考える。僕は「経営者視点を持て」って言う方だったんだけど、「立場で変わるな」と思った。

経営者視点を持つべきは、組織の中の役割から開放された瞬間かもしれない。チームワークが必要な中で、全員が経営者意識持ってたら、たぶん自分(自社)の利益の為の間合いだったり駆け引きだらけになるだろうね。

オフタイムに組織から離れて、客観的に考える瞬間では「経営者視点」って生きてくる気がする。それを持って、また組織の一員としての役割を担う立場へ復帰すると。

組織の中では集団で目的に向かうから、目の前のタスクを円滑に進める事が大切になる。この事の重要性が外からだと見えなくなる。すると「目の前のことだけ、歯車として動けば良いのか?」なんてノイズが生まれ、モノゴトが動かなくなる。
冷静に見ると、大切なひとつの事だけを進めることも出来ず、ただ言い訳しながら逃げてる様にも見えるね。

あと、必要なのは組織に加わる前かもしれないね。

どの組織に参加するのか?を考えるのは就職活動の時かな。自分の営業ってタイミングでは、やっぱり自分という軸を持ちつつ「経営者視点」は必要だよね。

常に無い物ねだりしちゃう人は、どの立場でも何かと理由をつけて楽そうな方向へと流れたがるけれど、その時にこの「経営者視点が」って話を持ち出す人も少なからず居る。

だから、冷静に考えれば組織として動く中で「経営者意識を〜」は、ツイートの話に納得しちゃったのですよ。


人から言われて、あーだこーだするんじゃなくて、どんな意見にも「意味・理由」があるってことを探らないとね。「そーだ、そーだ、経営者視点が大切だ」って、何の発想も無い組織の意識ロートルが言い出してそうな勝手な想像。

2016年7月14日木曜日

Facebookという閉じた場での主張はどこに繋がる?

情報は人を伝って流れていく。人から人へ。Facebookはそれを視覚化したSNSで、自分の発信した情報が、人を通して、更にその先にいる人へと伝わっていく。

「Facebookは閉じた場」という考え方は前にも書いたけれど、やっぱり伝播力としての強さが無い。どうしても内輪での盛り上がりでしかない哀愁がある。

情報は必ずしも一般的である必要はない。広告宣伝のように無差別に情報を撒くよりも、人と人の繋がりから生きる情報がある。仕事の繋がりもそうだと思う。

個人での活動が強くなってきた世の中で、手広く不特定多数を相手にするビジネスよりも、つながりのある個を相手にするビジネスの方がリアリティがある。

そういう場としての発信は「Facebook」の様な閉じた繋がりの方が、信頼性も高まるものかもしれない。

有意義な発信としては、「同調する仲間」「共感出来る仲間」を募るには良い方法かもしれない。それはビジネスや趣味に寄ると、相性は良くなると思う。

もちろん愚痴なども人を呼び寄せるモノにはなるが、ちょっとドロっとした場になる可能性もある。それを望むなら良いのだけれど。


学生時代からの友人が、あまりにも愚痴を書くのでフォローを解除した。愚痴でありながら、自慢っぽい内容が含まれている。楽しい事を「楽しい」。嬉しいことを「嬉しい」と素直に発信出来ない人は苦手かもしれない。

Facebookに限らず、SNSは長い目で見た時の日記だと思ってる。その場その時で感じたこと、考えたことをメモ程度に記しておくのは良いと思うけれど、振り返った時に心地良いのは「良かった」「楽しい」思い出だと思う。

時系列で見ることも無く、後から見直すことも無い「発信しっぱなし」の無責任な場として使っちゃうと、後々気分悪いのは自分な気がするんだよね。


思っている以上に、自分の考えは変化するし、時間の流れの中で全く正反対の生き方を選択することもある。
主張は良いのだけど、押しつけっぽくなる話は心地よくないぞ。というのは、相手にとってもだけど、日々変化していく自分にとっても言えることかもしれない。

もし、もしも主義主張を強く発信したいならば、専用の場所を作るほうが効果も出ると思う。

学生はメール使わないのか!という衝撃

メールを全く使わない訳でも無いみたいで、論文やらレポートの提出はメールで送らせる先生もいる。ただ、専用のシステムでアップロードされる機会も増えてきたから、メールは思っている以上に機会は少ないかもね。

真剣にメール講座やった方が良いかもと思った。社会との接点として、最初のコンタクトはメールってこと多いんじゃないかな。

敬語とかそういう部分でもなくてね。

そう、敬語といえば話し言葉で入力すると、相手に合わせて勝手に翻訳されるってシステムが出来るだろうって学生が話してて、「星新一の九官鳥ロボット」の話を思い出した。オウムだったかな?
肩に鳥型のロボットを乗せた営業マンが、個人宅の訪問営業する話。

「お前んとこのガキが少しでもましになる勉強道具売りに来たぞ」って言うと、鳥のロボットが「ご子息の成績がアップする教材は如何でしょうか?」みたいな事を伝えてくれる。今のスマホ翻訳だよね。


脱線したね。戻す。


でね、とある会社へインタビューに伺った帰りに、「御礼メールを書きたい」と学生が言うので、「おぉ、良いんじゃない。任せるからCCに入れておいてね」って伝えたところ、見事に入ってないという。笑

聞けばCCの意味が分からなかったらしい。(先に言えよ。おいっ)

とりあえず同席したメンバーを身内はCCに入れておいてくれれば、先方も僕ら側の共有したメールと判断出来るわけで対応は変わる。
今回は学生が個人的に送ったメールだと思われてるだろうなと。加えて、同じくCCに入れられなかった同席した学生は、全く反応が無いと思われているだろうし。苦笑

CCが相手に与える意味とかもちょっと考えないと。
LINEやfbメッセージは全部横並びなんだよね。メールで言えば全員「TO」。これに慣れるとCCって概念が分かりにくいかも。

でも、共有してますよ。って意味でもやっぱり入れてもらえないと。この意味ではTOでもCCでも良かったけど。
今回のような立場(僕がアポとって諸々調整の上で引率という形)であった場合、僕が抜けちゃってるメールでは、先方は学生からの個人的なメールにはドライに反応するだろうから勿体無いよね。って気持ちもある。

メールマナーみたいなの、敬語以上にちょっと知っておいても良いかもね。面倒かもしれないけど、まだまだ今の学生が社会に出たくらいまではメール文化だと思うよ。

マナーっていうか、コミュニケーションを円滑に進める術だね。
情報が誰にどこまで共有されているかを、相手に見せることで、動きやすい環境を作るってこともある。

2016年7月13日水曜日

学生から「暗い世の中を明るく変えたい」と言われたけれど「残念ながらそれは無理だよ」と伝えた。その簡単な理由。

学生から「暗い世の中を明るく変えたい」と突然言われた。うーん、曖昧でデカイ。

まず聞いたのは「世の中は暗いのか?」
その学生の目から見える世の中が暗いと感じるのかもしれないけれど、それは誰にも同じように見えているのか?という問い。

例えば、今日恋人が出来た人はバラ色だと思うし。恋人や家族と過ごす時間がキラキラしている人も居る。ご飯をおいしく作れて幸せ感じてる人も居るし、それを食べて感激してる人もいる。子供が生まれた人もいるし、就職が決まった人もいるだろう。お気に入りの財布を見つけたり、キレイな花を見たり、夜空の月がキレイだったり。

確実に、この瞬間に幸せを感じてる人がいるよね。少なからず、その時は暗いと思ってないと思うよ。

それを全て否定し、暗い話ばかりに注目して、「世の中が暗い」と言うのは自由だけど、なんだか「暗い」と言い切ってしまってるだけに、そうした幸せ感じてる人を見いだせずに「明るく」なんて出来るのかしら。

幸せを感じてる人は、たぶん周りに幸せを伝播させる力があると思う。「今日はこんな素敵な雲を見た」「お昼に食べたスープがとっても美味しかった」そういう事を自然に見つける人って素敵だよね。
たぶん、そういう人と接してる人も幸せだと思う。共鳴していくんだと思うよ。


だから、
「暗い世の中を〜」って人は、自分に都合よく世の中の暗いニュースを無意識に拾ってしまっているんだよね。望まない情報を排除し、悲劇のヒロインとなっている傾向だよ。
否定を否定しようとすることで、強く肯定する形となって、結果的に根底に否定を持ってくるから、全体的に否定から始まるドロドロした状況を創りだしてしまっている。

こういう状況を好む人達は一定数いるから、こういう意見の発生に共感する人はいるのだけど、実際に肯定しているのは「否定」だから、明るい話になりにくいよ。


あと、僕が「難しい」と言い切る理由はもうひとつある。
それは「他者の人生を変えることが出来ない」ということ。

人が何を考え、どう感じ、何を選択するのか。アドバイスは出来たとしても、最終的な選択は本人にしか出来ない。良かろうと無理やり与えたとしても、ポジティブな結果を得るとは限らない。望んだ結果とかけ離れれば、幸せは得にくいだろう。


「人を幸せにする」「世の中を明るくする」は残念ながら不可能なのだ。
つまり、「幸せだ」「明るい」と感じるのは本人次第なので、「幸せに出来た」「明るく出来た」というのも自分の主観であって、世の中では無い。


生きるなかで、多くのひとの意見に触れて、様々な考えがあることを知る。その中で自分の考え方が生まれて、様々な日々の選択を重ねていく。

もし「世の中を明るく」したいのであれば、自分が「明るい」と心の底から思えるかどうか?なのだろう。「暗い」前提に「明るく」は出来ない。

身近に咲く華の美しさに気付くことで、世の中がガラリと変わることがある。
その美しさに気づいた時、また新しい世界が広がるのだと思うよ。

メールに正解って無いよね?毎回試行錯誤です。

学生を連れてとある会社へインタビューへ。トップの方にも対応頂き、ざっくばらんに内情なども答えて頂き、大変貴重な時間となりました。感謝感激。

それで学生側から「本日の御礼は自分達から出したい」ということで、お任せしてみました。こういうのも良い体験だよね。失礼があれば怒られるだろうし、面白い出会いになれば、ここから続いていくだろうし。
学校の授業の中から派生したキッカケとは言え、ここから広がれば彼らの実力だと思う。


でもって、「こんな感じで御礼メール書きました。どう思われますか?」って質問が飛んできたのだけど、難しいよねこういう判断。
もちろん言葉遣いなどは基本中の基本とは思うけれど、なんかこうしたメールに『正解』って無いような気がしていて。

社会に出て20年経つけれど、実際「こういう時のメールは、コレで決まり」みたいなセオリーというか、スタイルも持っている訳ではなく、毎回相手の事を考えて試行錯誤してるのが、事実だったりする。

そこでどんな印象となるかは、メール1つ2つで決まることもなくて、相手との相性なのかなって思う。ちょっと乱暴だけれども、どう頑張っても難しい相手もいれば、トントン拍子に進んじゃう相手もある。この辺りは、恋愛に似てると思ってる。

ということで、今回のメールは学生に任せることにしてみた。
良い繋がりとして、今後の人生の中で続いていくと良いね。

結果は急がず!そして、相手に求められる人として、自分を磨き高めてもらいたいな。

NHKスペシャル『“介護殺人”当事者たちの告白』

http://www.nhk.or.jp/d-navi/link/kaigosatsujin/“介護殺人”当事者たちの告白

えらくショッキングなタイトルだけど、内容は誰もに起き得る状況が淡々と映しだされた。最後の選択肢については人それぞれだけれども、それを選ぶまでに経験する時間は「介護」という行為が同居する生活の中に、日常としてある風景だった。それが恐い。

なんとなく、その中で苦しめられる人は「答えはひとつしかない」と決めがちな人なのかもしれない。社会や組織の中では、生真面目な人ほどそういう思考になりやすいのかもしれないなと、映像を見ながら考えた。

目の前で起きている家族の変化は「問題」であり、その問題をクリアすべく「タスク」が発生する。「問題」についての状況を確認し、その解決策は最善の方法ひとつしかない。それが「◎◎だ」と決めつけてしまう。これが自分を苦しめることにもなる。

組織の中では、それぞれの負う責任の範囲で役割があるのだけれど、それは組織全体で進めるべき進行なのだ。自分の役割を明確に把握し、推進させることは得意でも全体を見ながら人員を集めたり配置させたりが下手なタイプは陥りやすいかも。

家族の介護が必要となったタイミングでは、経営者的な視点が必要なのかもしれない。

何が起きていて、何が必要なのか。その為の必要な人員やサービスを、どれだけ積極的に活用出来るか?その効率を少しでも良い方向へハンドリングすることが出来ればと。
突然の状況が起きて、後出しの受け身状態から始まるのは展開として常に辛い状況だ。出来れば先行して攻めの方向から模索できれば、精神的に良い面もある。



家族に起きることだから、そう簡単にドライな判断をすることは難しい。ここが仕事でない困難なポイント。気持ちを割り切ることや、今までの記憶や思い出が邪魔になることの大きさがある。こうした感情は人だけなのだろうか?

一概に「気持ちの持ちよう」とは言いがたいし、「自分だったら」という視点からしかモノが言えない。だから、『僕だったら「攻める」動きを取りつづける事が、自分の精神を安定させる唯一の方法』なのだろう。

状況を把握することで、一番気持ちとして落ち着くことが出来る。状況さえ分かれば、様々な攻めの方法を考えることが出来るだろうから。少しでもその状況下で取れる最善の選択を常に考えたい。一つ決めたらそれでずっと進行することほど、辛いことは無い。大切なのは「いつでも選択肢を変えることが出来る」ということ。

「死」がチラつく時、思い込むほど「それしか選択肢が無い」となる。それは半ば望みでもあり、「そうしたい」という気持ちが「それしか無い」と言い換えて、自分を納得させている様だった。

そう見えた瞬間は当事者のことを「ズルいな」と思う。相手のことと言いながら、自分の為に相手を殺している。だとしたら、ズルい。



介護は終わりが見えないし、終わる時は「死」を迎える時。永遠にも思える介護生活の中で、どこに希望を見出すのだろうか。日々進行する症状は、改善よりも確実にスローな「死」へと向かっていく。そのブレーキ側に加担しながら、ブレーキがかかることを嘆くのだ。

介護者が死んでくれたらと思う気持ちは自然にあると思う。ただやはり家族だからこそ「最後まで出来ることはしてあげたい」という真逆の思いが混乱を起こす。
結果的に全てから開放される「ズルい結論」へと導かれてしまうのではないか。



社会制度が全て解決させるとも思わない一面もある。
症状を起こした介護者は社会が原因とは言えないから。

原因は何なのだろうか?

昔は分からない。ただ自分の祖父母4人は比較的最後まで元気だったけれど、数年の入院生活の後に死を迎えた。自宅介護は無かった。

病院に患者があふれたから、自宅介護を選択させられる家庭が増えたのだろうか。この辺りは調べなきゃ分からない。ある年齢層の人口が多いからこそ、割合的に変わらなくても絶対的な人数が増えているのかもしれない。


テレビでも言っていたけれど、介護は突然やってくる。備えることは出来ない。
例えば、昔、祖父が亡くなった時に慌てて礼服を買いに行った。それを見て「準備不足だ」と言われたけれど、入院時に買うのは縁起でもないし、そもそも必要となる前に買うものかどうかも悩んだ。
介護はその経験以上に準備が出来ないものだと今は思う。


そして、介護生活に突入すれば、目を背けたくなる様な出来事が起きるわけで、それが家族ということだけで、精神的なダメージは肉体的なダメージに加えて襲いかかる。



介護者を殺してしまった選択は誰も責められないだろう。それくらい突然の生活の変化だから。でも、そうした状況が常に身近にあることを知っておいても良いかもしれない。
今は他人事でいい。ただ、他人事ながら色々なことを考えることが大切だと思う。無責任でも良いし、理想論でも良い。とにかく考えること。

そして、それが必要なければそれは素晴らしい。

もし身内に起きた時には、「様々な選択肢」があることを知ること。介護サービスについても、効果的な自分の家族にあった使い方がある。色々と条件が提示されるけれど、それはそれで、要は考え方と使いようだ。多少なり器用に、そして時にズルく生きていい。

例え死を選択するとしても、正解は無いと思う。ただ、なるべく多くの選択肢や可能性にトライした後に考えたいなと思った。

2016年7月12日火曜日

勝ち組って言葉が嫌い

「勝ち組」って言葉に囚われてしまっている人こそ、他者の評価の中でしか生きられないという、呪縛があると思うんだよね。結局何に対する「勝ち」なのかを図る基準だって、他者が引いた定規でしかない。

でもさ、人の生き方や幸せや充実度って、たったひとつの定規じゃ測れないよ。色んな幸せがあるし、その人が楽しいと思う事が続く人は充実してるよ。

どこからこういう言葉が来るのかな?って思ってたら、ツイッターで「夏期講習教材」の広告で「勝ち夏」ってのが回ってきた。これか!って思った。

「勝ち組」「負け組」なんて言葉は、こうした教育関係の広告との相性は良いよね。学生時代は閉じられた学校という中の相対評価でしか競争が行われてないから。一歩外に出ても塾のテストでしょ?
結局どんなに頑張っても日本国内の同年代の中での「相対的な競争」なんだよね。それに「如何に勝つか?」みたいな話は、教科数の話でしか無いんだよ。

でもさ、教科だけで世の中測れないのは、社会に出た人たちが一番知ってる。その中でも「誰が勝った、負けた」と他人との評価でしか自分を見つめられないのは悲しすぎるよね。絶対的な充実や楽しみに疑問符つけて歩いている様なもんじゃん。

勝ち負けなんて、結局学校のテストの数字でしかなくて、社会に出たらそういうモノが全く無くなる。仕方なく給料とかで一生懸命自分を肯定しようとするけど、それほど不毛な行為は無いよね。

充実してる人は美しいよ。

色々なモノゴトに挑戦して、自分が好きなモノに囲まれて、他者との比較なく自分が幸せだと分かること。僕は人としてそうありたい。

怒りが充満しても何も変わらない。変えたければ行動するしか変える術は無いよ。

感情的なものだけをただぶつけて。それだけで頭のなかを一杯にしてても、たぶん何も変わらない。その怒りの理由さえ、相手には何も伝わらないと思う。そもそも怒り心頭の人の話を聞こうとは思えないだろうし。

歴史の中で常に不満だったり、違和感を感じた瞬間から時代が大きく変わるってこともあるよね。でも、その時には感情だけでなく行動があったからこそ変わったんじゃないかな?

感情は共感を呼びやすいけれど、その感情にはあまりにも夢中になりやすくて、大切な部分を見逃してしまったり、忘れてしまったり。そして自ら土足で踏んでしまったりすることがある。
自分が何かで立ち上がる時、そのキッカケとなった思いは見失わない様にしていたいと思う。

やっぱり感情的な時には冷静な自分を失うんだよね。

だからこそ、感情的な状況に囲まれた時こそ冷静を保つって大切だよね。SNSは言葉だからこそ共感も呼びやすいし、呼びかけやすい。
巻き込まれやすいってことは、巻き込みやすいってことでもあるかもしれない。

SNSは手軽だから、不満を叫びたくなる。でも、それは指先だけの動きであって、行動さえ伴わず何か社会の勢力のひとつとして大きな役割を持った気になってしまう。それ、画面の外では何も変わらないし何も起きてないよ。自己満足なんだよ。
そのくせ偉そうに主張しだす。完全に閉じた場であるのに。

そもそもの不満や違和感の原因だったモノゴトに、足元すくわれるのはそういう状況の中で起きることだよ。閉じ込めたカゴの中で何かが騒ぐのは、管理者にとっては痛くも痒くもない。

違和感を感じることは大切だと思う。でも、その違和感に飲み込まれて、自分を見失うことだけは避けてください。自分があってこその違和感であって、そこから自分が無くなったら、それはもう自分の衝動ではないのだから。

感情的に振り回されそうな時こそ、冷静に強い行動を取れ!

2016年7月11日月曜日

永六輔さんが亡くなられた。


永六輔さんが亡くなられた。
個人的に特別本人に思い入れが厚いわけでもないのだけど、中学生の頃に手にした「無名人名語録」って本の著者が永六輔さんだった。この本の存在は僕の中で大きい。


「有名人」って事に対する「無名人」なんだけど、名前が無いわけじゃないってそんな感覚が面白くて。
人はひとりづつにひとつ名前があるとゴダイゴも歌っているのにね。

でもって、タイトル以上に内容が良かった。無名人の名の如く、「誰が言ったか知らないが〜」という内容だけに先入観無く響く言葉が多く綴られている。

好きな言葉で「子供叱るな来た道だから、年寄り笑うな行く道だから」ってのがある。ググッとハートを掴まれて、あれから数十年歩んできました。
色々反省するんだよね。重いのよ言葉が。

言葉の持つ強みを知ったのも、この本と出会えたからこそかもしれない。
永六輔さん。一度お話してみたかったです。


売れるもの売れないものの差は何?

不安や自信の無さは相手に伝わるよね。辛いことがあっても、苦しい状況の中でも、楽しさを見つけられる人間でありたいね。
楽しさを見つけられる人間は強いと思う。


ちょっと違うけれど、ここから物の話。


物を売る時に、良い物ばかりが世の中に出回れば素敵だけれど、どうもそうでは無い。物の持つ「自信の無さ」も結構表面的に現れてたりするよね。
「あれ?なんかイマイチだな」という感じ。

何かしら劣る物であっても、評判で売上が動いたりするのがこの時代の面白さかもしれないね。世論なのか?他者の意見に振り回される感じ。

多少期待はずれでも、安ければ文句言わない。そんな傾向はちょっとネガティブ発想かしら?とはいえ、最低限の品質維持は必要だよ。
短期集中で売り抜けてしまえば、ありなのかもしれないけれど。どれだけの規模でやるのか。かな。


視点を変えよう。

良い物を世に送り出すのであれば、特に安売りする必要も無いかな?って思うでしょ。「良い物を安く」は嬉しいけれど、より望むのは持続可能なことだと思うよ。
だったら、皆で首締めることなく、適切な価格で適切な量を供給出来れば良い。

商売的な視点で見るなら、価格は少しでも上げたい。という気持ちが強いよね。お客様が納得してくれる価格として、良いバランスってある。

それによって、品質維持から向上へ。末永い供給へと繋がるのは、皆嬉しい結果だと思うのだよ。

どれだけ長いスパンで世の中を見るのか?かもしれなくて、安くて良い物を!という考えが、顧客を苦しめる結果に繋がることもあるかもね。
適切な価格って言葉の重さを感じるよ。


売れるものと売れないものの差はなんだろうね?


単純に言えば、顧客の期待を少しでも超えることが出来れば良い物。次も欲しいと思う。その繰り返しの中で、ある程度の期間維持できるバランス。

あまりにも短期で結果を目指しすぎると、ちょっぴり苦しい結果に繋がることもあるよね。急ぎすぎず、焦らず。

売れる売れないの定義を見失うことがあるのだけど、短期の流行でドバーっと売れることが「売れる」ってことじゃ無いと思うのよ。
細くても長く続くことが「売れる」ってことなんじゃない?それ何本か束ねたら、すごい基礎になるわけだし。

世の中見てると、お金や結果を追いかける傾向にあるけれど、どんなに技術やシステム、環境が変わったとしても、使ってる人間の進化はそんなに早くないからね。

売れる商品は、買われる商品って言い換えることが出来るでしょ?
買われる商品ってなんだろ?って考えたら、案外簡単にひらめくことも。購買者視点に立つだけでも結構変わるよね。


目先を追わない人は強い。


ただ鈍感だったり、諦めが悪いのかもしれないけれど、逆境の中でもアイディアを見つけられる人って居るよね。そういう人ってキラキラしていると思うし、そういう人に人って集まりたくなるんだと思う。

物を供給する立場とするならば、こういう性格の人って売れる商品作れるんじゃないかな?って単純に思うのよ。ずっと長い目で、広い視野で見れる人。
だから不安を消すくらいの楽しみを見出したりしちゃうわけで。


ここで書いた内容の段階って、どこにでも当てはまる感じじゃないけど、ひとつの考えとしてはありだよね?

という。

2016年7月10日日曜日

「第一回文化屋雑貨点」に行って、かき氷を食べる。


http://bunkaya.wix.com/bunkayazakkaten

文化屋雑貨店のことは知らなかったのだけど、日々SNSから流れてくる情報で気になって足を運ぶ。神田のカレーが食べたくて自転車漕いだので、食後にそのまま脚を伸ばした。そして今日は暑かった。

会場となってるTETOKAさんもお初なのだけど、調度良いサイズだね。

100名の参加者が出展しているってことでギューギューの満載感。入口から中に入るまでも見応え充分。

入って左側の壁の上の方に飾ってあった今回の企画のポスターなのかな?あれが偉くかっこよかった。ギンギラギンのあれ欲しい。


かき氷食べてきた。暑いしね。


でもって、お目当てはセクシーキラーくんの「かき氷」。
特に気にせずフラッと行ったのだけど、彼に普通に会えたことにもびっくり。ずっと居るんだなって、そこ。
で、彼のSNSでずーっと気になってた「みかん」のかき氷にありつけました。


このかき氷マシンの前のセクシーキラーくん良いよね。夏休み感を勝手に感じたり。


それでこれがかき氷。すげースッキリ、さっぱり。冷凍みかん食べてるみたいな。シロップによくある変な甘さもまったり感も無いから、美味しかったよ!!!
ごちそうさまでした。

「第一回文化屋雑貨点」は7月31日まで!水曜日がお休みみたいだね。

「仕事をつくる」は「生き方を見つける」ってことかもよ。

最近、個人的に気にしているからこそ気付くことかもしれないけれど、色々な人から「仕事をつくる」というキーワードがあるよね。

言葉の意味としては、漠然と重さも含めて実感しているつもりなのだけど、向き合おうとすると自分に厳しくある一面もあったりして、後回しにしてしまうことも。
でも、しっかり向き合いながら考えるのは大切だよ。必要なことだと思う。


「仕事をつくる」は「生き方を見つける」ってことかもよ。


「仕事をつくる」って、新しい商品を作ったり、看板を掲げたりという、そういうスタイル的な部分では無くて、「自分がどう生きるか」って言い換えることが出来る行為だと思うんだよね。

自分が持っている武器と、周りの他者が求める期待。それらが需要と供給としてバランス取れた時に、経済の仕組みにハマるものなのかな。
自分の武器は、好奇心や興味、好きだとか楽しいとか、そいういう感情を伴っているものだと思う。

「仕事」はもちろん「生き方」は他者から強要されるものでも無いし、自ら課すものでもないし。そう考えると「仕事をつくる」って人生を掛けた大冒険だよね。

自分の「仕事をつくる」については、途中で放棄することも自由だし、一生探し続けたところで最後まで見つからない結果もあるかもしれず。人生の過程においてその都度、どこに喜びを見出すかなのかな。


ブレーキ掛けるのは常に自分って言うけど、不安も恐怖もない人は居ないよ。


生き方を追い求めることって、常に不安や恐怖はつきまとうものだろうね。でも、そこを気にすると本来の目的を見失う。この辺りはのらりくらりと気づかないふりをするのも大切かも。自分をあえて騙したりすること。たまにやる。

あとは、徹底的に不安と思う要素を上げて、ひとつひとつ潰すやり方もあるよね。これも一つの方法。

コミュニティを複数またぐという動き方も大切かもしれないね。
ひとつのコミュニティでの自分の見え方や在り方って、大概ひとつになりがちだから本来の自分が見えにくくなる事がある。人ってどんな人も多角的な複数の姿があるのだと思うよ。
ほら、コミュニティを構成する人たちの能力によって、キャラクターや求められる役割って決まってしまう部分あるじゃない?だから、色々なコミュニティを経験することで、構成する人間が変わるわけで、結果的に自分に求められる役割って変わるのよ。

経験は自分を成長させるだけでなくて、知らない一面を開花させたり。強い自信に繋がったりする。いやこれ大事だな。
複数のコミュニティを経験することで、気持ち的にも安定感は増すしね。視野が広がる。


複数のコミュニティに加わるって、パワーが必要なことだと思うよ。


そういう意味ではひとつのコミュニティに固定化されるサラリーマンってスタイルはちょっと恐いかなって思う。安定感はあるけれど(それが羨ましくもあるけれどw)、自分の可能性を放棄せざるを得ないこともあるよね。

コミュニティが変わると、扱いも変わる。それは良い方向、悪い方向、それぞれの変化の可能性が同等にあるのだけれど、これがまたフリーランスとして色々な経験の中で驚いたことでもある。
冷静に考えれば当たり前なのだけど、環境変われば扱いも見られ方も変わるよね。どの場でも「同じ扱いをされる」なんてことの甘い考えが恥ずかしい。

だからこそ、一度でも「居心地の良さ」を感じてしまうと、そこから離れたくなくなるのは人間の本性じゃない?否定しないし、必ず誰もが持ってることだと思う。だから「居心地が良い」と感じたら、そこを維持したまま、他のコミュニティへも繋がる選択をすれば良い。
いくつもコミュニティを横断するからと、捨てる必要は無いのだよね。どちらかというと「増やす」ことが大切。

どんな役割であっても、良好な関係を持っていたいし、それらを補うのが周りの他者であったり、人生に影響する人々だと思う。その関係をどう作り上げるかは本人次第で、求めるのであれば案外簡単な部分もあったりするし、放棄するのであればそれまでのこと。
ここで大切なのは、他者へも自分へも嘘を付かないことかなって今は思うよ。



気づいた時がいつでもスタートなんだよね。遅いってことは無いんだよ。


「仕事をつくる」という視点は、社会に出たときから常に後回し気味にしている。ここに来てようやく向きあおうとし始めた。無理すること無く、常に等身大でありながら、常に出来ることを増やしていくことが、生きる上での楽しみであり武器であると思うのです。

でもってここで聞こえてくる声は「焦っても良いことは無いよ。でも人生は短い。焦らず急げ」って言葉ですよ。先生、厳しいな。

2016年7月9日土曜日

偏見も個人の自由だとは思うけど、誘導しちゃだめよん。

ヒッピーっぽい人がSNSの中で目立ってくると、「アート系はそっち系が多い」みたいな意見が垂れ流しになって「あーぁ〜」って思って。

大概ネット上での議論なんて不毛に終わることが多いから、そこで反論しようとも思わないけど、言い出した奴に実際に会えるなら「バーカ」と一発パンチしたいとは思うよ。
なんかそういう意見が出てくると、それ見て影響されちゃった人から「アートを語る」って時に、ソレ系に一括りにされることがある。あれが苦手。つーか嫌だ。変なフィルター作るな。と。
(僕の身なりの小汚さも原因とは思うけれど。。。此の時ばかりは棚に上げる。)

ヒッピー系って自らを「特別な表現者」みたいな看板持つ人が多いから、そういう感じになるんじゃないかな?って。芸術家って名乗るのは簡単で、それっぽい何かをすれば芸術家になれるんだと思うよ。何も作らない芸術家もいるけど。笑
実際、僕だって明日から「芸術家になります」って宣言すれば芸術家だからね。

インテリ系の芸術家もいるし、ビジネスに秀でた芸術家もいる。物凄くストイックな芸術家もいるし。その中でも社会的にそれぞれの立場があったりして、どうにもこうにも一括りには出来ないと思うんだよね。
でもって、芸術家を「アート系」ってゆるゆるの枠を持ってくると更に裾野は広がるじゃない。「ムリムリ、括れないよ〜」って嘆いちゃう。


誰が何を主張しても良いんだよ。主張なんかはそれぞれの自由でしょ?


でもさ、その人達の主張を「雑な形で一括りにされた人が同調してる」って形で表現されると「オイッ馬鹿野郎」ってなるわけよ。互いに失礼だろ。と。

でも、炎上商法っぽいから、ネット上では腹立てないぞ。笑
リンクもしないし。でも書いた奴に実際に会うことが出来たら、僕の猫パンチをお見舞いしよう。

いろんな友達も居るから、それぞれが色々な主張してるのをこの選挙のタイミングで眺めているけれど、数百人が同じ考えで主張する方が気持ち悪いわけで、これだけ繋がる人が居れば、その人数だけ考えがあって当たり前だよ。

だからさ、雑な枠で一括りにしないでね。って変な記事を読んだ感想として、今の僕の気持ちは書いとく。

実現力は性格でなくて、習性からくるもの

睡眠時に見るものも「夢」なら、将来を描いたり、なりたい自分を想像するのも「夢」不思議だよね。不思議に思わない?

  1. 睡眠中に、あたかも現実の経験であるかのように感じる一連の観念や心像。視覚像として現れることが多いが、聴覚・味覚・触覚・運動感覚を伴うこともある。「怖い―を見る」「正 (まさ) ―」
  2. 将来実現させたいと思っている事柄。「政治家になるのが―だ」「少年のころの―がかなう」
  3. 現実からはなれた空想や楽しい考え。「成功すれば億万長者も―ではない」「―多い少女」
  4. 心の迷い。「彼は母の死で―からさめた」
  5. はかないこと。たよりにならないこと。「―の世の中」「人生は―だ」→夢に →夢にも

ネットの辞書では上記みたいに書いてあった。最後が悲しくも、ロマンがあるね。
でも、これだけの意味を同じ言葉で表すのも面白いよね。結構複数の意味で使われる言葉でもあるし。


「夢」って何かな?なんて考えてて、ここに辿り着いた。


睡眠時に見るもの、体験するものは「夢」ってイメージが強いけれど、「将来の夢」みたいな意味で使われる「夢」に関しては、あまり使わなくなってきたかも。

それは現実的な目標を掲げるからかもしれないし、実際の目標なのかもしれないし、もう「夢」ってほど曖昧な目標では無いのかもしれない。のほほんと生きてくるなかで、色々な手段や方法を体験してくると、この辺りの言葉の使い方は変化してくるのかもしれないね。

CMなどのストーリーで「大人も夢を見よう」みたいなテーマのストーリーは安易ながらも壮大な哲学っぽく見える言葉なのかもしれないけれど、諦めるってことと違う力で「夢」を実現化させる強みを持った「夢を見ない」大人って存在もあるなと。

これ、年齢はあまり関係なくて、なにか欲求を持った時に「どうしたら実現出来るか?」を自然に考えながら、早速手を動かす人は結構居る。性格というか、習性というか。


あまり考えすぎると恐くなるから、動いちゃう。そんな考え方もあるかもしれない。


色々動いた結果で、困難にぶち当たれば、それはひとつ経験値が増えた訳で、それはゲームオーバーってことじゃない。

面白いのは凄い怖がりな人も、凄いノーテンキな人も、それぞれそんな行動を取る人がある一定数居たりするので、性格ってより「習性」って言葉が適しているのかもしれないね。だとしたら、生まれ持ったものではなくて、生きてく過程で得たものって考える方が自然だな。

生き抜く力と実現力か。

馬鹿なことを真面目に考えぬくって大切かも

する必要の無いことを「実際に実現させるには?」という仮定でどれだけリアルに近づけることが出来るか?
実際に行動に起こして形にするまで実現出来る中で得られるもの。

それをする必要は無いのだから、全く無駄な時間かもしれないけれど、考えぬくところで思考する道のりは物凄く得るモノが多いと思うんだよね。

必要な機材やインフラ。もしそれを持ち込む事が難しければ代替品を考えたり。そして、それを持続させる為に必要なモノゴト。技術が追いつかなければ人力でクリアさせる方法。
あまりにもお金がかかり過ぎそうであれば、目的を見なおして他の方法を探ったりなど。

安易なところでは、その過程で発明に出会えるかもしれないね。

別に「発明をしよう」って事ではなくて、課題を自ら与えてみることで見えてくる世界って、実は物凄くリアルでワクワクで、そして発見の多い体験なんじゃないかなって思う。

夢ってそんな事の繰り返しかもしれないし、いつも「実現化」を実際にシミュレーション出来る人は夢にも近いのかなとか。

2016年7月8日金曜日

本当に機械に仕事を奪われるのか?

元蒸気機関車の運転助手という人がテレビに出ていた。そこで浮かぶのは「蒸気機関車を走らせるのに何人必要だったのだろうか」ということ。
僕の勝手なイメージとしては、運転士、石炭をくべる人、車掌に加えて、サイズによってはそれぞれの補助スタッフも居るはず。映画などのシーンから想像するしかないのだけど。

先日も使った「ゆりかもめ」には運転士がいない。車両の一番前から眺める景色が好きだ。子供が居る時は遠慮するけれど、そうでなければ一本やり過ごしてでも、最前列に乗りたいと思うくらい。
他の電車の運転士はこの景色を見ながら仕事をしているんだろうなと、羨ましくも思ったりする時間。


機械に奪われない仕事とはなんだろうか?


技術の進歩(ソフト面)と環境整備(ハード面)によって、人間が現場に必要無いというより、関わる人間を最低限にして、効率良く機能を運用することが出来る。
この交通機関で表現するならば、機械に仕事を奪われるというより、必要な人数が少なくなってきたと表現する方が適している。

もちろん、気遣いや心遣い、細やかなサービスなどの面では、効率では割り切れない仕事が発生する。その面では人間でないと対応出来ないという事もあるよね。
ホテルなどでのチェックインやポーターサービスについては、ロボットや画面の方が効率よいけれど、細やかな悩みや相談に対応してくれるコンシェルジュは人間であった方が良いよね。

タクシーなどもA地点からB地点までの移動ということであれば、移動と支払いに関しては自動運転や画面でのやりとりが効率良い上に、安定したサービスを提供できるけれど、やはりハイヤーに関しては、人間でないと対応出来ないサービスもある。
ちょっと環境は異なるけれど、日産カーウィングスでのオペレーターサービスは、ボタンひとつで相談に対応出来る上に、ナビの設定まで遠隔からしてくれる。これは窓口として人間が対応してくれるからこそ、サービスとして成り立っていると思う。


結局、機械が対応するのか、人が対応するのかは、適材適所なんだよね。


仕事に関して「機械に奪われる」「これから無くなる職種」とたまに出てくる話題もあるけれど、結果的に公平で安定したサービスと、臨機応変な対応という視点で別れる気がする。
今人間が対応しているけれど、本来は機械が対応する方が良い。という仕事や職種は多々ある。それらは技術かインフラなどハード面が追いついていないだけであって、結果的に機械が対応することになるだろう。

それに対して「仕事を奪うな」と言うのはちょっと主張が通りにくい。


機械が適している、人間が適しているという仕事がある中で、その人個人個人に適した仕事があるということも言えると思う。
まだこの辺りの振り分け機能がうまくシステム化出来てないとは思うのだけど、いずれ個人の能力や、やりがいなどの喜ぶポイントなどを的確に抽出した上で、的確な仕事の斡旋という仕組みも出来てくるのではないだろうか。

「仕事まで機械に斡旋されるとは、まるで機械に支配されている様ではないか」と言う人もでてくるかもしれないけれど、そう言う人に限って任せっきりだったりする。
こうしたサービスや情報は参考程度に、最終的に選択するのはいつも本人だと思うのだよね。その視点で、自分が思いもしない情報を得られるとするなら、それはとても選択に対して有益な情報だと思う。


現状を疑った方が良いこともある。


インフラがハード面が整わないということで人が関わる仕事は、もしかすると「誰でも良い」ということを遠回しに示していることなのかもしれない。機械に出来ない部分を人が補うということを現在行っているとすれば。

自分しか生み出せない結果が伴う様な仕事に携われたら、それは本当の幸せなのだと思う。やりがいとしても十分に価値があるだろうと思う。

どうしても他者との物差しでは、収入が基準にされることがあるけれど、収入の比較だけじゃ見えない部分でもあるのだよね。正当な報酬か否かという部分に行きがちだけれども、本人の結果が示せるのであれば自然と評価は上げざるを得ない。

自分のやりがいに関して、外からのノイズを拾いすぎると、幸せを逃すことがある。なによりも「自分が楽しいと思える時間」を長く維持できることが大切なはずなのに。たまに色気を出して違う方向への望みを投げかけてしまうことがある。その結果、足元すくわれて踏み外すのは映画や小説に見られるストーリーだけれども、現実の世界でも案外目にする。

本人の喜びや楽しみの評価は本人しか分からない。他者から評価されることでは無いのだと思う。

─「仕事をつくる」を考える。─

2016年7月7日木曜日

ネットのスルー“力”大切

SNSで物凄いボリュームの主張が飛び込んでくるのは今回のタイミング的なことと思う。それぞれ意見が有るのは良いことで、それに対して特別な気持ちは無いけれど、SNSのタイムラインはどうも主義主張を押し付けられている感があって、ちょっと息苦しくなる時がある。

誰かが言ってたけど「〜しなさい」「〜しちゃだめ」みたいな言葉ほど、押し付けられる感が強まるからちょっと嫌悪感出ちゃうよね。その人の事は好き嫌いをそれほど意識していなくても、あまりに続くと疲れる。。。


サラッとスルー出来る力が持てるといいんだよね。


書いてる本人も他者に対して押し付ける気は無くて、多くは自分に言い聞かせたり、自分にとって響いた言葉を書いてるに過ぎないから。それを無駄に受け取る必要も無くて、さらっとやり過ごせると健康に良い。

相手も個人を特定してプッシュしているわけじゃなくて、同じ思いの人が居たら良いな程度だとも思うし。スルーしたところで何も言わない。そして、何か言ってくる人は面倒だから早めに切った上で、少しずつ距離を取ることをオススメしますよ。

リアルの人たちと仕事などでも連絡ツールとして使うことのあるSNSでは、あくまで「閉じられた場」として意識して、主義主張は他の場で効率よく発信しても良いよね。

思想や偏見はそれほど気にしないけど、閉じた場であまり強い主張を続けられると引くよね。こっちも人間だもん。

CMを作るくらいなら、フィルム作品の発表の場として新たな才能のパトロンにならない?

CMってテレビ見る上ででは邪魔だよね。これはテレビと出会ってから感じていたこと。たぶん多くの人が同じこと思っているのでは?

でも、昔から好きなCMはいくつかあった。たまたまビデオで撮れてたりすると、メインの番組よりも繰り返し見たり。いつ流れるかなんて分からないから、たまたま出会えるかどうか?みたいなのが嬉しかった。シーズンが変わって、CMが次のバージョンに変わり残念に思う、なんてことも。


CMはどれだけ見られているのか?


数年前から個人的に、興味のある番組だけを録画して1.3倍速で見る習慣が出来たけど、HDDが飛んでからテレビはつけなくなった。最近はamazonビデオか、apple TVのコンテンツをスマホより大きな画面で見たい時くらいしか電源入れない。

個人的にはCMってそんなに嫌なものでは無い。
目的のコンテンツの間に強制的に挿入されるから、どうしても違和感があるけれど、それでも「あ、面白いな」って作品もある。そう、ショートフィルム気分で気分転換に楽しんでたところもあった。
それがいつからか楽しめなくなったのは、テレビ局側の扱い方じゃないかな?


CMの扱いが雑だから視聴者が嫌悪感を抱き始めたのでは?


いつの頃からか、テレビ局側のCMの扱い方が雑になったと思う。集中的に無理やり多くのCMを流そうとしたり、メインコンテンツをブチ切りにして、違和感ある突発的な入れ方をしたり。この扱い方が視聴者のCM嫌いを加速させたんじゃないかな?もともと強制的に見せられてたものだったわけだし。

視聴率の高い番組だからこそ、広告が入ってCMが流れる。だからこそ番組はより良いコンテンツにすべく制作費として更にお金を使えるはずなのに、そのCMを雑に扱い視聴者をCMから遠ざけていると感じるのよ。


TVで見なくても、見たいCMは見る。


「CMは製作会社の作品じゃ無い」なんて意見もたまに見るけれど、これは難しいポイント。見たいと思うCMは、企業サイトを訪れてでも見たいと今でも思う。

録画でテレビを見る限りCMは飛ばされがちだけれど、視聴者が検索してサイトを訪れてまで見たいと思うCMはどの程度の効果があるのか?

いや、実際テレビをつけなくなった今、テレビでCMを見るよりも、検索して企業サイトからCMを見ることが割合としては大きい。(その癖、ネットに流れる広告は見ないし、見たいとも思わない。)それは必ずしも商品や企業が際立ったモノではないかもしれないけれど。

この話になると「CMって効果あるの?」って話になる。話題性のある映像コンテンツは、それなりの影響力はあるんじゃないのかな?少なからず、何も発信しないより強い力を持っていると思う。

ただ一方で、魅力の無いCMは発信しない方が良かったという逆方向の効果も生まれることは知ってる。


そろそろ割りきってCM枠をショートコンテンツの発表の場にしません?


ショートフィルム的なコンテンツと割りきって、その作家の才能にスポンサードするって割り切る考え方も面白いかもしれないよね。企業がパトロンとなって、才能ある映像作家や役者がショートフィルムとして作品が流れる枠を提供する。

テレビ番組とCMという関係から考えると、もう何がメインコンテンツか分からなくなりそうだけど、テレビコンテンツにスポンサードするより、よっぽど世論の理解や意味のあるCM枠の使い方に繋がる気がするよね。


発信出来る枠を用意するだけ。そして才能を探し、出会う楽しさが溢れる。


僕が昔関わっていた【CET】では「発表の場を無料で用意するから自由に表現しないか?」と、それぞれ関わるディレクターが気になる作家に声かけて、その発信の場としてのイベントとなった。この考え方を、CM枠でやったら面白いんじゃないかと。

条件は15secか30secの映像作品。企業が若手作家のパトロンとなる形で、作品を作らせる。どこまで口を出すかはそれぞれの器の大きさ次第か。最初か最後に1secだけパトロン企業のロゴを入れても良い。

様々な作家の作品を見れる機会も増えるし、作家側は発表の場が増える。パトロンはメセナとしての活動の一貫ではあるけれど、普段メセナの活動は社会の生活から見えにくいところにあるのだから、テレビCM枠となれば何よりも発信力があるではないかな?

よっぽどテレビ見ようとする人たちが増えると思うよ。


消費者も新しい枠組み作りを期待している。同じお金を出すにしても、CM枠の使い方を少し変えても面白いかもしれないよね。やってみません?

2016年7月6日水曜日

「美術好きはアートの導き手になれ」という話

大学受験を控えて、気分転換に脚を運んだのが「国立西洋美術館」。その時は学校をバックレたのだと思うけれど、平日の朝一で上野へ行った。

外は日差しが暑い頃だったけれど、室内へ入るとひんやり心地よい空間だったのを覚えている。特別な展示は無くて、いわゆる常設展。通常の料金は学生ということもあって安かったはず。
「平日」「朝一」「常設展」という3つの好条件で空いてるから自分のペースで進めるし、好きな作品は他の人を気にせず、いくらでも眺めていられる。後ろから人が来たらちょっと避けてから戻れば、またしばらく作品と対峙できる。
この時から、この時間と空間が大好きになった。


美術に知識は必要無い


美大を出ているけれど、驚くほど作家の名前は知らない。自分が好きな作家は覚えるけれど、その作家の全てを追いかけることも無いから、基本的に「モネの印象・日の出」が好き。というレベル。原題も知らないくらい。

というのも美術に知識は必要無い。というか、知識が無くても楽しめると思っていて、「僕はこの作品が好きだ」と言える作品に出会えたら、それが一番の幸せだよね。美術鑑賞ってそれで良いと思うのです。

好きな作品から、作家の作品を追いかけるのも良いし、その仲間たちや時代背景から知識を広げるのは自然だけど、それは興味や好奇心がさせること。そこから得た知識によってまた新たな世界や楽しみ方が広がるけれど、必ず必要な行為じゃない。


「どちらかと言うと美術が苦手」という人との美術館鑑賞


とある医療教育系の方々との地方視察で、飛行機までの時間が3時間ほど余った時、それぞれ自由行動となったのだけど、僕が近くに美術館を見つけて「そこに行く」と言うと、他の2人が「一緒に行く」と付いてきた。

そこは現代美術館だったのだけど、その2人は「実はこういう作品は分からないんだよね」と言う。それで「例えば色使いがキレイとか、なんとなく雰囲気が良いとか、自由に感じれば良いんですよ。例えばこれだったら…」と、気楽に見ましょうよっという感じで回っていくと、次第に二人して「僕はここで使っている色が好きだな」とか、「これって牛の頭みたいだよね。カワイイ」とか、自由に鑑賞し始めた。

誰が描いたから素晴らしいとか、オークションで落札されたから価値があるとか、全くそういう事もなくて、時にそういった情報が邪魔になる事もあるよね。何も知らないからこそ、正しい評価ができるかなって思うし。

最後美術館を出る時には、キャーキャー、ワイワイと楽しそうだったのが印象的だった。そんな70代二人。普段は説明や裏付けの必要な場で活躍しているからこそ、ちょっと日常を忘れる体験としても丁度良かったみたい。


知識や社会的評価は美術に触れる上での武器になるのか?


先日も特別展に数時間待ちなんて話題になっていたけれど、普段の常設展だって自分の知らない「お気に入り」に出会うチャンスだったりするんだよね。
食わず嫌いというか、基礎情報を知らないからこそ、他者の評価などに左右されずに素直になれる感覚。だから、僕はこの常設展が好きだしオススメしたい。

美大にも知識豊富な頭でっかちが居るけれど、それを凄いと思っても、正しいとは思わない。制作側だったから、知識に頼り過ぎると技術が追いつかない人が多い気がする。何か一つでも知ってる技術を習得出来ない「劣っちゃう」部分が見えると、怯えちゃうんじゃないかなって思う。知識先行すると「出来ない」ことが怖くなるよね。

知らないことで、どんどんチャレンジ出来る強さにも繋がることはあると思う。制作過程の中で試行錯誤して新しい手法見つけちゃう奴の方が凄いって思う。


文化を内向的にし、興味を持った人へのハードルを上げるのはそうした人たち


知識優先の知人は生き様として息苦しそうだなって感じることもある。歴史上の人物や過去の作家の講釈並べられても、自分のことじゃないから憧れのままでいつまでも追いつけない。

でも、そういう人こそ「美術館賞講座」とかしたがるし、実際にやっちゃう。やり方次第だとは思うんだけど、知識よりも「感じる」ことを優先して欲しいなと思うことがあるんだよね。

たまに、知識を振りまく自己満足会になっている場に立ち会っちゃう時があるけど、類は類を呼ぶのか、知識合戦になってたり。その人達同士の内輪だったらいいけど、美術に興味持ち始めた人が初めてその場に立ち会ったとしたら…、ちょっと引くよね。僕はドン引きすると思う。

自信がないと理論武装する奴がその文化をダメにしてる。って、美術だけでなく全てのジャンルで感じることだけど、美術に於いていうなら、それは美術好きじゃなくて「美術好きな自分好き」な。


ある日聞こえてきた言葉に正解を発見した


「美術が好きならば、アートの導き手になれ」これはラジオから聞こえてきた言葉なのだけど、物凄く共感した。だいぶ時間が経った今でも強い印象が残ってる。
新たに興味を持ち始めた人に対して、優しく手を差し伸べることが出来るのが大切で、それこそがその文化を広げ育てることなのだと思う。

自分の知識をひけらかしてマウンティングすることを、自称「アート好き」がやりがちだけど、それ辞めたほうが良いよ。

他者を信じて生きるのは楽しいかもしれないよ

例えば組織の中で誰かが社会的な罪を犯す。それが皆の知ることとなると「あの組織はとんでもない」と組織全体の評判として広まることとなる。
これは組織が大きくなればなるほど、経営陣が抱える悩みの一つでもあるよね。人数が増えれば、社会的エラーを起こす人が組織に存在する可能性も増えてくる。

「組織の中の1人の評判は、組織全体の評判でもある。」そう言われるほど、組織の信用問題は危ういものでもあるってことのなのかもしれない。ただ、一人ひとりに数百、数千の人間の信用が掛かっていると考えると、ちょっと荷は重いもんだね。

まわりから見る立場として考えた時、その問題を犯した人間の評判は仕方ないものの、組織の他の人たちのことは信じてあげても良いのではないだろうか?


罪を憎んでも人や組織を信じるということ。


悪の組織として、全員で悪いことをしていたのであれば救いようが無いけれど、社会の中で健全に活躍する会社などの組織の中で、ひとりが起こした不祥事に対して組織全員を叩くことは辛くないかな。

例えば、嘘を言う人は嫌いだけれど、嘘をついた人が所属する組織全員が嘘つきと決めつけるにはちょっと無理があるぞ、と。不利益を負った人に対するケアは必要だけれども、組織への態度のあり方は考えたほうが良いよね。

いや、もっと他人を信じてみようよ。ということ。


偏見が持つ盲目にさせる危険性も考えてみよう


結構な愚痴が流れやすい時代の中で、例えば警察など絶対的な信用を必要とする組織の不祥事を叩く動きは一旦火がつくと勢いが良かったりするけれど、それで警察全員を叩くのは少し筋違いかもなと。もちろん確実にダメな奴は居る(笑)、けれど素晴らしい志を持って活動している人たちだって居るのも知ってる。それだけの人数が所属してる組織だよ。

企業なども、社会的な動きもそう。悪い出来事ほどピックアップされやすく、それによって悪いイメージが見えやすくなるとしても、素晴らしい人の存在を結果的に否定してしまう動きは、ちょっぴり愚かな行為なのかもしれないね。

人を信頼して任せると気持ちは軽くなる。上記で言えば、警察の仕事は警察に任せるしかないし、そこに不安抱えていても何も解決できることは無い。(ダメな奴も居ることを前提としても)警察を信用した方が圧倒的に楽になる。
他者の組織に文句や疑いを持ったところで、他者である自分が影響を及ばせることなんて皆無に近いのだから、不必要なストレスから開放されるって手段かもしれない。もちろん「諦める」のと、「信頼する」のは違うからね。そこは取り間違えないように。


他者を疑って生きるより、信じたほうが心地よいかもしれないよ


他人の非を叩くより、自分の時間を有効に使うべく、他人を信頼するって考え方あるかもしれないよ。いつでも揚げ足取りの情報が飛び交っていて、真偽さえも不明確で曖昧なままのフワフワとした状態が気持ち悪いことがある。

なんでもそうかもしれないけれど、他人を疑ってそれを前提に攻め続けるよりも、他人を信じる方が気持ちが楽になることがあるよ。その方が楽しいと思うんだよね。他者を信じることが大切だと思うんだよ。

衣食住から感じた人生の中での選択

これも3年くらい前に書いてたメモをFacebookからサルベージ。人が生活するに必要な「衣食住」についてと、その選択について。


衣食住が生活の基本というのは変わらない


子供の頃から「衣食住」が生活に必要な基礎と教わってきた。必要だからこそ進化も凄まじく、時代の経過とともに効率と低額化を追い求めた結果、その3つの存在の大切さが薄れてきた気がしている。無意識にこなす対象としての3つという感覚。

効率化、低額化は、誰にでも欲しい時に届くように。という目的だったと思うのだけど、それが実現し定着していくなかで、軽視されていく傾向へと繋がっている気がする。
必要な行為こそ「楽しむモノ」という感覚を持てる人達は幸せだと思うのだけど、そこに気づかず過ごしてしまうと、勿体無いなって思うのは余計なお世話か。


生活に大切だという意識を、もう一度自分の中で確かめても良い


例えば食事。素材を調理して色々な味で楽しむこと。栄養素としては、たぶんどのように摂取してもそれほど変わらないはず。もちろん加熱や一緒に摂る素材による吸収率の違いなどはあるだろうけれど、その調理にかかる料理人の労力は、その吸収率と比例しないと思う。きっと、料理人の労力はおいしく食べるという豊かさに比例する。
たぶん「食」を楽しむ為に、その素材をおいしく食べる為だけに、かける時間を持てる人にだけ得られる豊かさ。

そう、必ずしもお金をかける必要は無くて、素材をおいしく食べようと思う気持ちを持てるか否かの違い。良いとか悪いとか、ここに正解は無くて、どこに生活や人生の重きをおいているかのことだけだと思う。人の価値観の違いはこの辺りで見ることが出来ると思う。(恋愛や結婚はこの点が合うなら幸せなんじゃないかな)

例えば、子供の頃見た未来の生活の中では、食事は全て「カプセル」か「錠剤」になっていた。現在のサプリなんかはソレに近いのかもしれないね。完全食が開発されて「COMPXinada」が登場した時に、反応していた友人も少なくない。食事の時間が煩わしいと感じる人はある一定数いると思う。

趣味として、たまにキッチンに立つ人も多いかもしれないけど、生活の中での位置づけとしては調理や食事は他のモノゴト(例えば仕事や趣味の時間)の下に来てしまう人が現代では多いんじゃないかな。


効率の良いモノとうまく付き合うこと


ファストファッション、ファストフード。それらを選ぶ時の感覚は「無よりは有」くらいの価値観かもしれない。その場だけの要求を満たす。それ以上でも以下でもない。自転車を漕ぎ続けるように、取り入れては消費していく。
「意識」して選択をしなければ、ただの無意識の消費であって、手軽に入手出来ることはラフな取扱につながって、様々な価値観が狂いはじめることもある。

愛着ある何かを大切に保つことで得られる喜びや楽しさ、生活の中にあるゆたかさを失ってきているのかもしれないなって思う時がある。もちろん僕自身も興味のないモノに対しては、悩むことも無く安易に安価なものを選ぶ経験が少なくないから。
それによって失ってきた機会もあるのかなって思うと、ちょっぴりゾッとすることもある。


効率を追った結果得られる人生の豊かさってなんだろう?という様なことを考えたりすると。
例えば自分が楽しいと思う瞬間を継続させたいから、その他の部分を簡単に済ませる事が出来れば、それはその瞬間の自分にとってはメリットも大きいと思うけれど。その選択が習慣化してしまうと、特に目的もなく簡単に済ませてしまう事に繋がっているかもしれない。それは効率や進化を活かした結果とは思えないよね。


住まいも効率を追いかけたスタイルとしてワンパターン化があるよね


住居に関しての感覚も一旦崩れて、表面敵にはまた戻った感じもあるけれど、住まうことに対する選択肢は確実に時代とともに増えてきているよね。シェアハウスやルームシェアという使い方の言わばソフト面から、新築・改築だけでなく用途変更による古い建築物の利用などのハード面まで変化はさまざま。
先に上げたファストフードやファストファッションに並べるなら、間取りも設備もそれほど変わらないワンパターンな間取りのワンルームマンションがあるかもしれないね。安くは無いけど、人生の中で見れば短期間の賃貸スタイルが一般的。効率を追った先にある形だとは思う。


生き方を選ぶのは自分。豊かな時間を過ごす為に選択すべきこととは。


生活を豊かにする為の選択肢のひとつとして生まれた「ファストフード」「ファストファッション」だと思うのだけれども、それらを活用する側が思った以上に無思考に選び続け、生きる時間までも安易に消費して持て余してしまっている姿が見えたりする。

生き方を選ぶのは自分自身だから、他人のそれにとやかく言う立場も無ければ義理もないけれど、自分が自身の姿に嫌悪感を感じるのならば違う選択をした方が良い。「ファスト」とは適度に付き合えば良いし便利に利用出来れば良い。ただ、それを選択する際に何を優先しているのか?の意識だけは持った方が良いかもしれないね。

効率の良い選択肢があるからこそ「必要な時にそれを選べば良い」って考えるのが僕の考え方。だけど、例えば食事で「どうせ食べるなら美味しいものを食べたい」と選択する様になったら、自炊も積極的な選択肢に入るし、外食で言えばファストフード店への来店頻度は確実に減った。もちろんゼロじゃないよ。便利に使わせてもらってるつもり。

全てに於いて簡単に済ませること、安く済ませることが人生の目的じゃないと思うんだよね。背伸びせず、今の自分が持つ選択肢の中で、その為に知恵を働かせて楽しみを得られたら素晴らしいことだろうね。

本当に必要なモノ、大切なモノを考えられる生活が、人らしく生きる為には必要なのかもしれないよ。


#仕事をつくるを考える

2016年7月5日火曜日

患者家族同士の接点を自然に生み出す「家族ボランティア制度」を知る

最近関わることになった病院の取り組みが面白いなと感じていたら、テレビ東京のカンブリア宮殿でも取り上げられていた。北原国際病院
僕が通っていた小学校近くということもあって、こんな近所にこんな病院があったことに驚いたりも。

病院の中は郊外のカフェかペンションっぽい雰囲気。訪れるとまずそれに驚いた。どこでも見られる家具だけど、センス良く並んでる。病院って暗い気持ちになる場所だからこそ、こうした雰囲気作りは患者もその家族も気持ちが楽になるよね。


看護師のユニフォームも、一般的な看護師スタイルでは無いので、働く側は動きやすそう。担当によって色分けされているのだけど、患者側としてみると誰がどの専門スタッフか分かり難い時があるね。入院時に説明はあるのかもしれないけれど。

どなたも印象良く、とても対応が丁寧です。年齢層が若い雰囲気も、フレッシュ感生み出しているのかもね。


患者家族ボランティア制度が面白い。


同病院の他施設へ転院することになる時に説明されたのが、この「家族ボランティア制度」相談員のスタッフさんから説明を受けたのだけど、内容としてはこんな感じ。

・患者家族が病院内でボランティアとして活動してもらう。
・内容は清掃や園芸、患者さんとの会話やゲーム、病人家族同士の交流への出席。
・ボランティア活動は8時間/月を目標
・家族は登録制だけど知り合いなどでも可能。
・自宅で小物を制作するような活動もある。
・ボランティア保険も整備。
・8時間/月をクリアすることを前提に、入院費が抑えられている。

良いことづくめだけれども、実際には現場スタッフの仕事量は増えていると思うんです。慣れていない人に仕事を割り振ったり、質問などに対応したりと。

でも確実に患者家族側には、患者家族同士の接点も増えるわけで、色々と沈みがちな気持ちや孤立しがちな立場の人たちに、多くの切っ掛けを与えてくれる。

これに踏み切った病院は素晴らしいな。

この制度への参加はしていないけれど、色々と期待することが多くあるので、まずは体験した上でまた発信したい。

2016年7月4日月曜日

時代や状況に応じて変化する強さ

「多様性を持つ日本の文化の良さ…」という一文を見て、「そうか、日本の文化は多様性か」と感じた朝でした。

八百万の神々って気持ちも、最近は生活の中で薄れている気もするけれど元々はそうした「様々に受け入れよう」とする形がそこに現れているのかも。

特に他者を否定しない考え方を説く人は少なくない。もちろん「他を拝むと腹を立てる」みたいな昔話もあるけれど、どちらかと言えば複数の神が生活の中に宿ると感じてる方が自然かなと感じることもある。これだけ多くの人が生活する社会だからね。


多様性は失われているのか?


社会の持つ多様性はどこで変化があったのか?日本人の文化の中に「多様性」は刻み込まれていると感じるし、僕らの世代でもその下の世代でも受け入れている気がしている。
もちろん、仕事上などでは受け入れがたい状況も出てくる。ここに関しては僕もまだ寛容になれない事も多い。(ゴールが設定された中でどう多様性を持つかはこれからの僕個人のテーマなのかもしれない。)

人が住む場所でそうした環境は異なってくると思う。

世代という見方も出来るかもしれないけれど、地域の成り立ちや歴史が持つ風習や文化から、何かを守ろうとするあまりに受け入れられず、結果的に苦しくなり衰退してしまうという悲しき一面もある気がする。

一概に何が悪いとは言えない。ただ「あれだけ歴史があったモノが」という話も、誕生した瞬間があったハズで、そこから考えれば、ふと生まれたものが消えたことでしかない。

何百年、何千年と続いたモノも、過去と未来から見れば点でしか過ぎないこともある。


多様性は対応力としての強さ。


多様性は様々な意見を取り入れることで、時代や状況に合わせて変化する力を持つ。それはずっと続いている様で、実は常に変化していることだと思う。
文化もそうだし、企業などもそうだけど、時代に応じて変化する力を持っているのは、とても強いことだ。

その強さを日本の文化として、それぞれが持っているのだとすれば、とても心強いことだろう。世界の中で活躍する上でも、そうした考え方は強みになるはずだ。

2016年7月3日日曜日

3年前に、新しい生き方や働き方が必要だと感じた #仕事をつくるを考える

3年前くらいにFacebookで『「仕事をつくる」を考える』として、いくつかコラムっぽいのを書いていたのを発見したので、そのままfbに眠らせても仕方ないので、この機会にサルベージしてみる。

やっぱりFacebookは閉じた場所なので、そこに記録したものはfbが動かないかぎり眠ったままのデータになるよね。勿体無いな。

その当時の考えと少し変わってることもあるから、今のタイミングで気になる部分は書き換えましょう。


学生時代アルバイトとしてウチで働いてくれたスタッフの話


海外から日本にやってきて、今はひとりで生活しながら働いている。しかもやりたい仕事を見つけて、就いているのだから凄い。

彼女はアニメが好きで日本の専門学校へ留学し、そこで学んだ上で就職活動をして就職をした。日本に来る前は自国でデザインの大学を出ている。かなり優秀。ポートフォリオを見せてもらったけど、アニメ好きの要素に加え、グラフィックデザインも整っていて、とても良かった。

クリエイティブ系の仕事だから、休みがつぶれる事もあるし、夜も遅くなるけれど、「今が楽しいし、幸せです」と笑顔で語る。20代の女の子。

言葉の壁は低くは無かった。でも、この時来日4年目という彼女の日本語は、日常会話に不自由は無かった。ウチでアルバイトをしてくれている時も、丁寧に解説すれば理解できるし、メールでは全く違和感なかった。


そんな彼女の日本語学習は驚くことに独学。


自国に居る頃から、アニメやマンガで日本語を学んだと言う。ラジオドラマも良い教材になったらしい。好きだからこそ、それを活かした学び方だと思う。
今では「スマホゲームも日本語の勉強になる」と笑いながらスマホを見せる。

見事に趣味と実益を兼ねた見本だけれど、好きだからこその一直線で、ここまで結果を出しながら、日常を送っている彼女はとても頼もしい。
「いずれは母国へ帰ると思う」と言うものの、もうしばらくは日本で仕事をしたいと目を輝かしていた。


東京の物価は母国の約四倍。


そんな国でおくる日常生活は案外日本の若者と同じスタイルで、街にあるショップで試着したり、現物を見てサイズを確かめてから、ネットで購入するという。
今の若者感というか、この時代の文化的なツボをおさえているのは妙に関心してしまった。郷に入れば郷に従え、か。


自分には海外で仕事を得る自信があるか?


彼女を自分に置き換えて想像してみると、かなりの不安ばかり。
「海外で仕事するって大変じゃない?」の問いかけには、「全然大丈夫ですよー」と、全く根拠は無さそうだけれど自信を感じた。実際にそれをやっているのだから、その言葉に嘘はないのだろう。

実は海外で活躍する友人に聞いたことがある。僕が海外で生きていけるだろうか?の問に対して帰ってきたのは…「大丈夫じゃない?何かしら生きていく術を見つけると思うよ」と。
確かにそうなのだ。どの場所で生きていくとしても、なんらかの生きる術を探すのだから、それがどの場所だからどうこう異なるという訳じゃない。もちろん言葉や文化のハードルはあれど、それが見えやすいだけで、ハードルの数はどの場所でも同じなのかもしれない。

取り組む前に怯えてはいけない。というより、見えない事に怯える行為は、むしろ勿体無い思考なのかもしれない。不安はあっても、まずは自分の欲求に対して正直に行動すること。どんなことでも「知らないこと」へ飛び込む瞬間は不安が生まれるのだ。

ウチの元アルバイトが就職して、『自分が「楽しい」と思うことをする』ことの大切さを教えてくれた。

#仕事をつくるを考える

パワポカラオケに行ってきたけど、相当面白い。 #パワポカラオケ

Twitterで流れてきた情報で、たまたまタイミングが良かったから大塚まで。お目当てはこちらの「パワポカラオケグランプリ」。


チラシはこんな感じ。

まったく分からないまま「今日!」という力強さと、「見たい人は〜」というゆるさに興味惹かれて迷わずGO。

会場が分かりづらかったけれど、エアコンもひんやり快適空間。
本日の出場者は、、、誰も知らない。笑
そもそも主催者も知らないし、どんなグループかも不明だから全く問題なし。


本名出てる方が少ないのですが、米光さんは「ぷよぷよ」生みの親とのこと。他の方も普段は医療系だったり、様々な背景お持ちのようでしたね。

で、そもそも「パワポカラオケとは何か?」ですけど、結構簡単なルール。

パワポカラオケとは
その場で知らされたテーマを、その場で初めて見せられたスライドで、即興でプレゼンテーションする遊び。


ルール(今回のルール)
・持ち時間3分、スライド4枚
※スライドを戻すことは禁止

以上、とってもシンプルでした。
他の動画などを探ると、枚数や時間なども設定に自由度があるようです。「スライドを戻すことは禁止」これだけは共通しているのかも。

あと、あたかも「自分がこの日の為に一生懸命作ってきた」という『設定』で話すこと。これ重要ですね。

面白い文化だなって、調べてたら海外にもあるのか!笑
既に人気の遊びでもあるのね。お酒片手にやるのも面白い。TEDが一般化した今だからこそのエンタメでもあると思いました。




ということで、観覧。


写真撮って良いか分からなかったので、一枚も残ってませんが参加者のレベル高い!見せ方も話し方も、普段からプレゼンしている人なのかなと。
でも、あくまでエンタメなので「楽しさ」を忘れちゃいけないよね。思いがけぬ奇跡が起きたりと、これはやってみたいな〜!!(誰かやりませんか?今回の主催者を招いてやってみたい!)

今回の主催者曰く、大きく2つの団体があるようで、将来的にはプロレスの団体の様な存在をねらっていきたいとか、なんとか、(忘れちゃた。。。)

アドリブ命なのだけど、次のスライドの開け方に奇跡がやどりますな。「ということで、伝えたい事はコレ(バンッ)」みたいな。

機材も最低限で済むし、学校の授業でも取り入れてみたいな。と、アンケート用紙には記入して場を去ってきました。

また次も遊びに行きたいのですが、次回からは誰かも巻き込んで観覧に行きたいなと素直に思いました。コレ、クリエイティブ系にどんどん広めたい!

↓これ実はあまり良くないw(本物はもっと面白いですよっ)

「成功を目標にするな。優秀であれば良い。優秀であれば成功する。」今の自分に突き刺さった映画に出会う

僕らは勉強してるが、目的は成績じゃない。
成功ではなく、優秀さを追求しろ。
成功は自ずと付いてくる。

「優秀であれば良い。優秀であれば成功する。」とあったのが、『きっと、うまくいく』という映画。インドが舞台の大学生の話。そして、その後にそれぞれどんな大人になったかを描いた作品。

ボリュームあるなと思ったら、2:51の作品。大作です。



現役の大学生とかに見て欲しいな。きっと勇気が出ると思う。日々いろいろなノイズに囲まれて「こうしなきゃいけない」という状況に押しつぶされそうであれば、「あ、こういう生き様もあるかもね」と気軽に見れば良いかな。


大学という環境で過ごす時間の中で、ちょこちょこと気になっていた違和感を、うまく表現してくれた作品だったから、タイミング良く刺さりました。

社会に出てからも「成功」を追い求める結果、自分の良い部分を失ってしまう失敗は多いよね。何度も経験しているのに、どうしても繰り返してしまう。
たぶん欲望があって、それに対する嫌らしい気持ちが、そうさせるのだと思う。

人って変わらないモノだよね。。。

学生に薦めたい作品だったけれど、社会人として過ごして来た人たちの方が、もしかしたら響きやすいのかもしれないね。

久々に気持ち良い作品を見ました。Amazonプライムなら無料で見れます。


2016年7月2日土曜日

学校は学ぶ場であって、流される場じゃないんだよ。

就活の本来の意味は?
仕事に出会うための活動をせず、狭い世界の中で決めていないか?

ナカムラケンタさんの「日本仕事百貨」を見ていると、こんなに丁寧に仕事に向かい合っている人がいるのだと、日本人が好きになったりもする。メディアで騒ぐ情報は、心地よいものばかりじゃないから、こうした情報って取りに行かないと出会えない。

取材とライティングによる賜物と思う。人と、その人が大切に接している仕事という、とてもデリケートな部分だからこそ、これほど求人を丁寧に扱っているメディアは他に知らない。


日本にもまだ出会わない、知らない仕事が沢山ある

日本は広いなって思うし、ここにある「仕事」こそ、人の生き方の選択の多さを感じる。「日本仕事百貨」に掲載されている仕事さえも、一部でしかないのだから。

社会に出るという意識より、学校を出るという意識を持った時、自分はこれから何をして生きていくのか?という選択は、もっと自分と丁寧に向き合って考えても良いと思う。学校の作ってくれたリストや、学生向けサービスの作ってくれたリストだけの中から選ぶには、どうも勿体無い気もしている。

色んな人、色んな仕事にあふれた世界で、自分の仕事を作っていく。それはゼロから生み出す必要も無くて、自分が「素敵だな」とやりがいを感じられたら最高だし、それを探す時間に時間を割いたって良いと思う。


周りに流される違和感は学校という特殊な環境だから


何十社も片っ端からエントリーシートを書いている姿に違和感があって。そこまで追い込まれるから、大学を出る時に就活が決まっていないと、この世の終わりって感じになっちゃうんだろうね。

同じ状況の人たちが周りで数百人単位で動き回っているし、様々なメディアから流れる情報も煽ってくるのだと思う。結果的に競い合う中で、誰が一番有名な会社へ行けるか、誰が一番早く決めるか、誰が高給を約束されるかを、盲目に走るレースになっている。

決まったから正しい、決まってないから負け。そんなことは全くなくて、自分に自信が持てることでお金を得て、それで生きていくことが最高の価値なのでは。

簡単なことじゃないし、誰にでも当てはまることでは無いと思うけれど、あまりにも周りに流されすぎると、かえって無駄な時間を過ごすことになるぞ。っと思ってる。


その人の財力と哲学はクルマが教えてくれることもある。その青年がロールス・ロイスを買うためにしたこと。

どこかの記事で読んだのだけど、とある青年が自分でロールス・ロイスをいつか持つ為に、アメリカのロールス・ロイスオーナーに直接話しかけて試乗させてもらう話。
結果的にその青年は自分のロールスロイスを手に入れたとか。そこまでの美談だった気がする。

そもそも、その若者がロールス・ロイスオーナーにお願いに行くというのも、「どうやってこのクルマを手に入れたのですか?」と、オーナーと出会う切っ掛けづくりであり、ビジネスの話を直接聞いて学ぶという事にあったのだと思う。

実際ロールス・ロイスを手に入れる人は、それだけの財力を持っている訳で、1代で稼ごうが、2代目3代目だろうが、繋がりを持っておくのにメリットは大きい。
今で言うソーシャルネットの世界を、現実に行ったのがこの青年だったという話だ。

現代なら「テスラ」が当てはまるだろう。海外のテスラディーラーには、充電時間を過ごすためのオーナーだけのサロンがあると聞く。ここで出会うのは「テスラ」を購入するだけの財力を持っていることと、「テスラ」の哲学を理解している人たちだ。そう1人のオーナーが語っていた。


現代でエキサイティングなお金持ちを狙うなら、テスラオーナーかもしれない


今までの自動車の概念を全て変えたのが「テスラ」だと思う。そこに理解している人であり、そして財力を持つビジネスを持っているということ。これに勝るリアルソーシャルネットの現場は無いだろう。

こうして、日常の瞬間から人と人が繋がり、様々なモノゴトが生まれている。

自分をどこに設定するのかは自由だけれど、望むならその一歩は勇気を持って歩むべきだろう。望まなければ得られない。ただ、望む場へ物理的に脚を運べば、きっと望む世界を見ることが出来るだろう。

何を基準として、自分を信じるかは自由だ。だからこそ、直感を頼りにする瞬間もあっていい。ただそれを見失った時、その時は物理的なモノゴトを基準にするのも良いだろう。そうかの青年の「ロールス・ロイス」の様に。

 

自分が思う最高のスタイルが相手に対する経緯なんじゃないの?自分の人生の選択肢を他人に決めつけられてて良いの?

企業から募集を見て、応募する。エントリーシートは何十枚書いた。面接の練習や、アドバイスを受ける。ネットでその企業の傾向などを探る。面接に向けて、無難な服装を心がける。そして、頑張る。

たぶん今の学生の就活ってこんな感じだよね?でも出だしがおかしくないか?
就職って「募集」しているから受けるんじゃなくて、行きたいから門を叩くもんでしょ?それくらいの強い意思や気持ちが無ければ、仕事面白くないんじゃないかな?

もちろん、行きたい会社が募集していたら「ラッキー」ということだけど、そもそも提示された選択肢の中だけで自分の将来決められるものなの?違うでしょ。

世の中どれだけの仕事が存在していることか。そもそも法人になって無い場所もあるし、募集なんて掛けてない所も圧倒的に多いと思う。
だけど、それらを全て選択肢から捨ててることになるんだよ。


社会に出ると自分の人生に自分で責任を持つことになる。


もっと丁寧に自分の生き方を考えた方が良いんじゃないかな。乱暴すぎるよね。学校に居ると周りがそう動くから、それに気づいたら巻き込まれていて、リクルートスーツ買って、面接に望む。
本当にやりたい仕事なの?そもそも選択肢の中から「少しでもマシ」なものを選んだだけじゃないの?結局他人に薦められた仕事に就いたとしても、自分の人生の責任を取るのは自分なんだよ。選んだのは自分なんだしね。

こんな話すると「まぁまぁ、それは清水だから言えるんだよ」と言われることがある。僕が特殊とも思わないけれど、「学校出たら必ずどこかに就職せねばならない」って人も居るだろとは思う。ただ、皆が皆じゃないでしょ?

学校側としてみれば、親心として「優良な会社が募集している」とあれば、学生に勧めたくなる。研究室の教授などからは、学生の普段の態度や興味などから、適切な会社を示しているとは思う。
だけど、それを踏まえた上で、他の可能性をあたってみるってことは無いのかな?



面接は大好きな異性とのデートか告白かプロポーズか


よく「オヤジの戯言」的に、リクルートスーツは個性がない。量産型の就活生に何を見出すんだ。とか言うけど、僕もほぼ同じ意見。
例えばさ…、大好きな相手との初めてのデート、あなはどんな服を着ていく?

相手の好みを探って、それに合わせたコーディネートや、自分のお気に入りの洋服を着て行ったりするよね。髪色も髪型も、自分が一番素敵と思うスタイリングにするよね?
なのに、就活の時ってなぜそれをしないんだろう?

後れ毛だらけの着慣れぬリクルートスーツに疲れ果てた学生の姿を地下鉄で見ると、とても残念に思うし、清潔感のかけらも無いなって思う。
普段の自分が思う最高のスタイルで向かうことが、相手に対する経緯なんじゃないの?

色々と自分が置かれている状況に疑問を投げかけて良いと思うよ。「これが当たり前」と思うことほど、自分を見失っていることがあるはずだから。


他人の言うこと聞いて得したことは無い。もちろん僕の言葉も同じよ。


40歳になって、より強く思うよ。もっともっと自分の望む通りの生き方をすべきだと。最低限「選ぶ」のは自分なのだから、その選択には責任を持ち胸を張ることが大切。
他人に言われるがままの人生を歩んだからといって、誰も恨めないし、誰からも誉められない。
誰もが他人の人生に責任は持てない。だからこそ、自分の望む道を歩むべきなんだよ。


2016年7月1日金曜日

立派な和彫りを間近で見ることは、これから先無くなることだろう。

温泉地へ行って日帰り浴場へ寄った。平日の夕方なので、既に街の人気はまばら。入口で入湯料払って浴場へ。

2列の4人並びの洗い場があったのだけど、片方は3名が使っていて混雑、もう片方は1人しかいなかったから、自然とそちらの方へ。
ちらっと先に洗っている人を見ると、血色が良くない。というか、肌の色があまり良くない。「あれ?気分でも悪いのかな?」とか思いつつ、よく見ると手首から足首までの見事な和彫り。


単色だったけれど、あれだけ見事なのは久しぶりに見た。


年齢は50〜60代くらいかな。ここはお風呂なので気持ちはどこかリラックスしている様だけど、なるべく隅の方へその大きな身体を隠すように身体を縮めて洗っている。その姿は他の客への配慮だろうね。あれだけ立派な紋々は隠しようがないけれど。

反社会勢力に対する社会の対応は理解できるけれど、そこから抜けだした人達への配慮って社会的にはハードルが残るよね。
その人が現役か否かわからないけれど、この時代にこうした場で湯に浸かっているのだから、もう一般の世界で生活しているのだろうと。丸めた背中から感じてみたり。

湯船に浸かる時、ちょうど正面に。顔をあげること無く、静かに湯船の隅へ入った。ここで初めて顔を見た。いい顔しているんだよ。緊張感というか、気迫がありながらも、気配を消そうとする雰囲気がある。


作品として素晴らしい、画力のある彫師の作品だった。


その人は3分も浸からずに、湯船の縁へ腰を掛ける。膝から下だけ湯船に浸かる姿勢。ここで正面の彫りを見ることが出来た。
大きな龍が左右に、真ん中に鉄塔の様な構造物の画。構図も良く、迫力もある。作品としても素晴らしい。単色だからこそ誤魔化しが効かないだろう。他の色が無いのに、飽きずに画に引き込まれる魅力がある。

手元に目をやれば、左手小指を落としていたり、元々そちらの業界の方なのだなと。気づくと、ちょっと現実に戻される瞬間。

彫りを入れた切っ掛け、画のテーマを決めた経緯など。あとは色々と経験をしてきているだろうと想像の上で、人生観や社会との接点など。色んな事を聞きたくなった。

話しかける切っ掛けがつかめず。脱衣所で会えたら少し話しかけられるかな?と思っていたけれど、最後までそれも叶わず。僕が居るタイミングでは湯船から出てこなかった。


もう会うことは無いだろうけれど。


ちょっと話してみたかった。「彫り」があったからというよりも、あの人の背負うオーラがとても興味深かった。情に厚そうな、それでいて真っ直ぐな雰囲気。人としての興味だった。彫り物もその人の個性を象徴しているなと感じた。

そんな湯船に浸かる瞬間だけの出会い。もうそれぞれの人生で接点は無いだろう。

脱衣所で髪を乾かしながら鏡を見る。僕自身もあまり人相は良くない。あの人と並んだ洗い場は、それはそれで可笑しな絵面だったのではと、後ろからの眺めを想像してみたりする。


地方のテーマパークが抱える問題を体感してきた。

平日にちょこっと遊びに出れるのは自営業の特権。「日曜日が休み」という仕組みを早く廃止にした方が良いと思う。仕組みというか、その概念というか。
日曜日に観光地やそこまでのルートは混雑し、その結果平日には閑散としてしまっている現状がある。

「牧場」と、ふらっと検索して出てきた「赤城クローネンベルク」へ行ってきた。後から知ったのだけど、今年に入って民事再生法を申請したそうだ。



満足度が高くて、食べ物が美味しい!


入場料は1,200円。これを高いと見るか、安いと見るか。平日限定のサービスとして無料のランチがセットになっていた。しかも2つのメニューから選べるスタイル。
ドリンクは別料金だけれど、スープもあるので満足感は高い。そして、野菜が旨い。東京じゃ簡単に食べれないフレッシュな野菜。添えてある肉も、スープの中のソーセージまで旨い。パンももちろん美味しい。

これ、やり過ぎ!満足度は120%!笑

もしかすると入場料を半額くらいに下げて、ランチ割引くらいの形でも良いかも。「それじゃ、安い入場料だけで一日遊ぶお客さんがお金落とさないんだよ」と言われそうだけども、賑わいがある方が人が人を呼ぶという面もあるよね。

公園としての利用価値を高めてもらって、入場料を下げた上で、各コンテンツへ落ちるお金を増やしたい。




僕だったら食とドイツ文化で運営する


僕らが入った時には、園内ですれ違った客は1組。
スタッフの方々も、どこへ行っても気遣いがあるし、おもてなし満足度は高い。本当に楽しかった。

目立って「違うかな」と思ったのは『ゲームセンターコーナー』。これ要らないよね。子供にせがまれて小銭を落としていくのかもしれないけれど、雰囲気が台無しなので、僕が運営するなら、真っ先にここを撤去したい!

運営側の自信の無さの現れと見えるのだけど、良いコンテンツも素材も溢れているから、もっと自信もって良いよ!

あと食事が美味しかったので、気軽な価格のメニューを増やせたらイイネ。あれもこれもと選ぶと、結局一人あたりの単価が上がるくらいで。
僕らの入ったレストラン以外にも、もう一つあったのだけど、そちらは本格的なのはわかるけどちょっと価格高め。
ビールのおつまみ程度に、美味しいお肉を色んな種類食べれると良いな。

ということで、食事系のコンテンツを推していきたい。

また、ドイツ要素をもう少し増してもいいかも。『ドイツ文化』的な部分のコンテンツが弱い。現状では「牧場」「ビール」「ソーセージ」という雰囲気だけど、ドイツ文化が体験出来る要素が加わると良いよね。生活や工芸(マイスターの国じゃないか!)、歴史などなど、そういったコンテンツを増やしたい。

目先の小銭より、全体的な1人辺りの単価アップ。更に来場者アップが目的。




交通のハードルが地方テーマパークの課題かもね


これから夏のビールの旨い時期だから、「平日休んで昼間からビール」という楽しさを味わえる様な、そんな雰囲気作れたら良いよね。
東京から定期運行してもいいかも。駅などが近くないエリアの「アルコール系」を売るのが今の時期のポイントかも。

とはいえ、山梨などのワイナリーや、地方の酒蔵なども観光コンテンツとしては話題性もあるので、そこを推せると思う。

ラマは恐かったけど。笑
群馬は「食」が強いエリアだと実感した。






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