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20160712

勝ち組って言葉が嫌い

「勝ち組」って言葉に囚われてしまっている人こそ、他者の評価の中でしか生きられないという、呪縛があると思うんだよね。結局何に対する「勝ち」なのかを図る基準だって、他者が引いた定規でしかない。

でもさ、人の生き方や幸せや充実度って、たったひとつの定規じゃ測れないよ。色んな幸せがあるし、その人が楽しいと思う事が続く人は充実してるよ。

どこからこういう言葉が来るのかな?って思ってたら、ツイッターで「夏期講習教材」の広告で「勝ち夏」ってのが回ってきた。これか!って思った。

「勝ち組」「負け組」なんて言葉は、こうした教育関係の広告との相性は良いよね。学生時代は閉じられた学校という中の相対評価でしか競争が行われてないから。一歩外に出ても塾のテストでしょ?
結局どんなに頑張っても日本国内の同年代の中での「相対的な競争」なんだよね。それに「如何に勝つか?」みたいな話は、教科数の話でしか無いんだよ。

でもさ、教科だけで世の中測れないのは、社会に出た人たちが一番知ってる。その中でも「誰が勝った、負けた」と他人との評価でしか自分を見つめられないのは悲しすぎるよね。絶対的な充実や楽しみに疑問符つけて歩いている様なもんじゃん。

勝ち負けなんて、結局学校のテストの数字でしかなくて、社会に出たらそういうモノが全く無くなる。仕方なく給料とかで一生懸命自分を肯定しようとするけど、それほど不毛な行為は無いよね。

充実してる人は美しいよ。

色々なモノゴトに挑戦して、自分が好きなモノに囲まれて、他者との比較なく自分が幸せだと分かること。僕は人としてそうありたい。

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