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20161226

「値段なんかどうでも良いから一番良いモノ見せて」というオーダー

ふとした所で見かけたのだけど、この「タイトルの注文」ものすごく試されてる感がある。
けっしてバブルな感覚ではなく、相手に対して、その人の仕事を見極めるには適したオーダーの仕方かもしれないね。

気づけば「予算が限られてるので」「今回はお安くなんとか」「安くてスミマセン」なんてオーダーばかりを受けてきた時代の中で、何度も「もっと予算があったら」「もう一歩このクオリティを上げたい」なんて、言い訳の様に使ってきた言葉。

そんな中で、「値段気にせず最高の仕事を見せて」と言われて抱える緊張感は半端ないなって。

最高の道具を使えば最高の仕事なのか。材料とスタッフと時間と。

でも、最高の道具を使えば最高の仕事になるとは限らない。最高の材料やスタッフ、時間さえもかければ良い物が出来るって訳じゃない。

それ考えた時、タイトルのオーダー。いやっ、その場の空気を考えると逃げ出したくなる。だって、そこにあるのは「自分の最大限出せる技術をここで見せてみろ」って事だもんね。

それに値段を付けるのも難しいかもしれないけれど、常に最大限の結果を生み出せる様な体制(体調かな?)を整えておくってのもプロとしての基本なのかもしれない。

「この値段だから、この位で良いだろう」という感覚で生き続けると、ここでしっぺ返しが来るんだろうな。

「値段なんかどうでも良いから、一番良いモノ見せて」というオーダーを受けた時、そこで相手を仕事で満足させられなかったら、二度とオーダーは無いわけで。
値段うんぬんよりも、先が無いのですよ。

ちなみにこのオーダーは飲食店。
結果的に出てきた料理は最高であり、オーダーした人を満足させたという。
年末に緊張感あるな。

頑張ろ。

20161202

保身しか無い糞ったれな自称教育者たち

高校時代、大学をどう選ぶか。
尊敬している人の出身校。尊敬している人が先生をしている。仕事をする上で必要な知識を得られる学校だから。そんなところだろうか。

どこの大学に行こうか迷った時、このご時世では「就職率」とか見ちゃう。
特に高校時代なんて、社会に対しては不安しかないわけで、何もわからないまま放り出される無知故の恐怖に対しては、この「就職できそう」という感覚は、曖昧ながらざっくりとした安心感がある。少なくとも僕が学生時代はそんなことをどこかで感じていたと思う。

就職率が高い大学は、時代的にも社会にとっても必要とされる知識を得られる。そんな大学なのだろうと胸を弾ませて入学したら、「どこでも良いから内定取ってこい」と言う研究室を持つ大学だった。とは笑い話にならない。

実際そんなことを言われた学生から相談を受けた。ひどい話だ。

就職は悪いことじゃない。社会で生活をする上では、よほどの金持ちでない限り、いや、金持ちであっても働くのは良いことだと思う。
その手段のひとつとしての「就職」という選択肢がある。

そう、あくまで生きていく上での「選択肢のひとつ」にすぎない。
なのになぜ、その研究室は「就職率を上げたい」のか。要はその研究室の教授は教育者としての能力がないからだ。
人を育てられないから、そうした「就職率」「内定数」で自分の評価とする。

まわりもチヤホヤするのかもしれないが、どれだけその人が糞かわからないままに、教師の言うことだからと、もがき苦しみながらも従おうとする学生もかわいそうだ。

でもね、そんな大学多いよ。残念だけどね。
入ってから分かる絶望感は半端ない。

あえてアドバイスするならば、学校に入るまで見えないことも多い。入ってから落胆したとしても、学生という看板を背負っているうちは、色々な場で学ぶ事ができるのだから、前向きにそう考えながら、自分の興味に素直に突き進むのが良い。

そして、「内定取ってこい」と一言でも言うような研究室へは所属しないこと。このあたりは先輩に聞けばわかる。「内定取ってこい」って言う教授は、1mmでも学生のことなんて考えていない。学校に残るための保身でしか言えないセリフなのだと、そこを理解すべきだ。

繰り返すけれど、残念ながらそんな「糞」な先生や学校は少なくない。特に「就職率」を一番の看板に据える様な学校は注意した方がいいかもしれないね。他に自慢する特色が無いって恐いよ。

なにか生きてる理由があるのかもしれないね

「出来ることなら今すぐ死にたい」と言うのを聞いて、そんな事言う人を眺めながら「まぁ確かにその状態ならその気持も分かるかも」と先日。
今までは一般論としての「なんてことを言うのだ」「そんなことは言ってはいけない」と答えていただろうけど、その時そう言わなかったのは違う考えが、ふと浮かんだから。

結果的に僕が口に出したのは

「どんなに苦しくとも、死なずに今生きているのであれば、なにか生きてる理由があるのかもしれないね」

と。

結局歳を重ねても、身体的な状態や健康状態などでも、生きる理由なんてあまり関係ないのでは?とその時あらためて感じた。子供の命と老人の命の大切さは違うのか。病気の人は、ハンデを持つ人はかわいそうなのか。

いろんな状態であれ、生きてる人は生きている。
見方によっては、それは残酷なもので、何も目的がなければただただ時間が流れていくだけ。

何かしらの好奇心さえも失った時が一番つらいだろう。
朝が来て、目が覚める。食事をして横になる。そしてまた夜がくる。その繰り返しを受け身でいるとつまらないだろう。

どんな状況でも出来ることはある。

生きている状況を活かせないのであれば、それはとても辛い時間となる。ただ過ぎていく空白。現状を嘆くことは簡単なことかもしれない。

何らかのハンデがあれば、それが辛いと嘆くものなのかもしれない。それは個性と言う人もいるけれど、案外そういうものなのかもしれないね。

「つまらないから、死にたい。」というのは勝手だけど、死なずに生きているのだから、やっぱ何かやった方がいい。ハンデがあっても、出来る事があればそれで良い。そこに正解は無いし、誰かと比べるものでもない。

どんなことでもいいと思う。空想だって良い。何か考えるだけでも良い。
ムダなことなんて無い、ただ何にしても前向きに能動的に取り組むほうがいい。

だから、反射的に、
「死にたいと言っても、死なずに生きているんだから、その時間を有意義に過ごす何かを見つけたほうが良いね。それは何かと考え続けることでも良い」

僕はそう思ったんだ。

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