Translate

このブログを検索

2005年8月8日月曜日

教育と椅子は誰の為に

椅子の制作に夢中になっていた時期がある。大学生活の大半だったのですが、特に後半は椅子ばかりが僕の頭の中を漂っていました。大学時代の僕は、教授でも講師でも、意見が対立すれば立ち向かうというか、反抗期というか、実際に殴り掛かってさえいたのですが、今でも心に残っているシーンがあります。
椅子のコンセプトからデザインを起こしていたとき、「椅子のサイズは誰に合わせるのか?」という話になりました。モノをデザインするときには、そのモノが使われる状況を様々な角度から眺め、形を考えるという流れがありますが、マーケティングという作業に近い初歩的な段階です。
例えば、使用対象者あるいは、購入対象者が日本人20代から30代、ある一定の経済的な層としても、さまざまな生活があります。そんな中でその椅子を選ぶとき、対象者を男性に限っただけでも身体のサイズは同一ではない。ではその層の「平均」に値するサイズで作れば解決するのか?そんな話。
例えば、くつろぎ系の椅子であれば、多少座面を低めに作っても座り心地は良いのですが、使用者にとってあまりにも座面が高いと、くつろぐどころか、足がつかない事で自然な体勢になってしまう。
理屈で言うと、平均の値を取る事によって、半分以上の人間に対して座面が自分にとっては高い椅子が出来上がってしまう。だからといって、最も低いと想定されるサイズにすると、座面が低すぎて大きな身体の人にとっては、ものすごく無理な体勢を強いることになる。一人一人に作っていく事が出来れば良いのだけど工業製品ともなると、素材の材質などにもよりますが、コストなどの考えもあり、そうもいかない。
椅子は平均のサイズにすれば良いということではない。様々なサイズを調整していく必要があったのです。
そんなことに例えたいのが、日本の教育に関する行政の方との話。
今の時代には様々な環境があるとしても、教育は全てに平等でなければならない。その基本的な考え方が「平均」という考え方。それによって、皆が平等な教育を受け伸ばすことができるのだ。と、言います。
ただ、どんな環境にいても、どの地域、場所にいても、まったく同じ金太郎飴の様な教育が大切なのだろうか?
基本的な考え方や内容を同一としたところで、教師は同一ではない。様々な個性を持つ人間なのだ。これでは同じ教育を受けられるどころか、子供にとっても教師にとっても、学校にも、家庭にも無理がかかっていないだろうか?
それぞれに特色があって、良いのではないでしょうか?
ありがたい事に、椅子は使う側が選ぶ事が出来る。今の日本であれば、世界中の椅子を手に入れる事は難しく無い。そこになければ自分で作れば良い。
でも、教育はどうでしょうか?椅子と同じ扱いは出来ないのでしょうか?
座りよい椅子を手に入れたときには、生活の全てがスムーズに流れる時間を感じる事が出来る。今の教育を携わる役所の人は、座り心地の良い椅子に触れた事が無いのではないでしょうか?

2015/07/18:追記
今考え方を広げれば、何も日本で教育を受けさせなければならない訳ではないという選択肢も思い浮かぶけれど、それは万人向けなのか否か。
教育に関しても現場の進行はだいぶ変わってきていると思うけれど、その進む方向が正しいのかは未来にならないとわからない。

人気の投稿

Google+ Followers