Translate

このブログを検索

2017年2月17日金曜日

時間はそれぞれ人にとって有限だという話

「時は金なり」そんな看板を背負ったクルマを見た。確かにそう思うこともあるけれど、最近「時」に対して思うのは「時は有限なり」ということ。
こんなジジ臭い思想は、人生のターニングポイントを回ったということだろうか。

学生時代にまで振り返れば、無限に続くものだと思っていた時間。親が年を取り、自分も中年という年代に踏み入れたことで、時間の有限性を実感する。

そう、人一人が体験できる時間は有限なのだ。

娯楽コンテンツを楽しむ時間

技術の進歩によって得られるのも「時間」なのかもしれないと、Youtubeを眺めながら思った。子供の頃は見たい番組があれば、その時間にテレビの前に待機する必要があった。日曜日の午前6時とかにやっていたアニメが好きで、休日の早朝はテレビを独占して見ていた。
家族が多かったこともあって、誰も起きてこない休日の早朝は好きだった。親が起きてくると「チッ」って思ったり。

その後ビデオが我が家にも導入されて「録画」という概念が生まれた。自分がテレビの前に居なくても見たい番組が見れるのはもちろん、レンタルビデオを活用すれば映画コンテンツも見れる。これって本当に凄い。

テレビという一方的なスケジュールで縛られて居たものが、時間を無視して自分の都合を持ち込むことができるようになったからだ。
テレビから「時間」という概念が消え去ったタイミングでもある。

技術の進歩が生み出す時間

そしてそれから30年くらいかな?違法合法共にあるけれど、場所を選ばずに映画コンテンツもテレビコンテンツも、個人が作るようなコンテンツも選び放題で、好きなときに好きなだけ見ることができる。
コンテンツに「場所」という概念も消え去った。これは結果的に「時間」という部分にもつながっている。

今の生活を送る上で、年齢関係なく「時間」という概念がインターネットによって崩された時代となった。テレビの前で「待機」していた体験を懐かしむか、馬鹿らしいと思うかそれぞれだけれども。

人に与えられた時間は有限である。これは変わらないのだから、娯楽コンテンツに縛られなくなった今は、使える時間が増えたと置き換えることができるかもしれない。

どう生きるか?それを考える時に、限られた時間を実感することが、また難しくなったと言えるかもしれないね。

どう生きる?なにに時間を使う?

人生に於いて「娯楽コンテンツを見ている時間がもったいない」という人もいるだろうけれど、まぁ好き嫌いもあるので否定はしない。でも僕は「ある方が面白い」と思う人間。だから人生に於いて娯楽の時間は大切。楽しく生きる上で、笑っている(泣くという娯楽もあるね。感動もあれば、驚きもあるね。)時間は長いほうが良い。人間というか感情に厚みが出る。

そんなことを含めて「時は金以上に、命なのだ」と考えるとしっくり来た。
タイムリミットが必ずある中で、今過ごしている1日、1時間、1分、1秒。どう使うかを評価するのは自分。それも、エンディングの短い一瞬だけしかない。(これ恐い、後悔できないんだよ…)

年寄りだから先が短い、若いから先が長いとも言えないのが人生。
「時は命なり」

2017年1月3日火曜日

2016年は既存サービスが崩壊する切っ掛けとなった年だったね。2017年に生まれるサービスってなんだろう?

年末年始に入り、仕事の一段落なタイミングでカメラのレンズが欲しくなった。何も分からないので、とりあえず友人が進めるレンズを基準にしようとチェックするとAmazonで「在庫あり」ってのが出てきた。しかし、そこでポチッとするのを躊躇した。

佐川は年末にニュースとなったけれど、実は年末に津久井湖付近をクルマで走行中にヤマトのドライバーに罵声を浴びせられた事があった。まぁ僕のマナーも良いとは言えないけれど(笑)、罵声を浴びせられる筋合いは無い。ただ、その場では怒りというより、なんかそのヤマトのドライバーが可哀想だなって気持ちになった。
いろんなストレスを抱えているんだろうなって雰囲気がモリモリ。ちょっと同情する方の気持ちが高まったりするよね。(だって看板背負ったトラックでマナー悪く汚い言葉を叫ぶって、その精神状態はよっぽどだよw)

2016年末のウェブ上では、どっかの弁護士のブログがドバっとシェアされて「通販控えようかな」なんて声も増えたけれど、なぜ消費者側が「今使用出来るサービス」をワザワザ控える必要があるのだろうか?
ネットで「送料無料」って書いてあろうが、実際には配送コストが発生しているわけで、商品の金額なんかに反映されている(倉庫代やら人件費なんかも含んでるのが商品の金額よ)。
ヤマトやら何やらの運送業者が無料で配送しているわけではない。会社である限り利益は産んでいるからAmazonとかと契約しているわけ。

だから、消費者が使用を躊躇しちゃう状況ってのは経営が下手なのよ。
末端にしわ寄せが来ちゃってるから、配送の担当者のストレスが爆発している。だから配送のお兄さんが機嫌悪いのも、頼んだ僕らが悪いのではなく、ヤマトの首脳陣の経営が下手なだけなのよ。
人手不足だろうが、配送のお兄さんの給料が安かろうが、僕らの責任は一切無い。むしろ、サービスを利用している=運送会社の利益を生み出しているわけ。それが薄いだなんだってのは愚かな経営者の全責任である。契約書に印鑑突いたの僕らじゃないし。

話題の佐川の配送のお兄さんはクビになっちゃったみたいだけど、結果良かったと思うよ。その場でその仕事していてもストレスが無くなる事は無かっただろうし。合っていない職場だったと思う。少なからず他に良い仕事があるだろう。無理して健康状態に響いても会社は保証してくれる訳じゃないし。馬鹿らしい。僕はとっとと辞めてると思うよ。
あのストレスを抱えるまで頑張ったのは、結局真面目な人だったってことだろうし、責任感も強かったのだと思う。強すぎたから爆発するまで溜め込んじゃったのだよね。

で、僕の話に戻れば、
結局、カメラのレンズは2,000円近く高かった近所のヨドバシで購入した。年末年始にヤマトを使うのに躊躇した結果の出来事。ヤマト使いづらいの半端ない。

サラリーマンって立ち位置の働き方がココで大きく変わるだろうなって思う。しわ寄せを負うのが末端のサラリーマンだったとしたら、経営陣が馬鹿なら何も変わらん。小手先の変化で何が出来るのか?

流通の部分で言えば、これからも利用量は増加していくだろう。ただ今まで通りの配送の仕組みは既に崩壊している訳で、ここに大きな変化がもたらされる切っ掛けになる。そこに新しい産業が起こりサービスが参入してくる。
既存のサービスの崩壊が2016年の年末に起きたということ。

でもって、この既存サービスの崩壊は、働き方の崩壊も表していて、これは流通だけの話じゃない。ちょこっとばかり目立った結果であって、他の産業でも同じ。
今の大学生が働く頃には、もう学校で教えられた色々な常識が崩れ去ってる訳で、何を見て社会に踏み込むか?って姿勢だけで大きく差が開くだろうなって思うよ。

そんな新年2017年。
どんな生き方をしていくのか?そんな事を突きつけられる、社会のタイミングなのかもしれないね。

2016年12月26日月曜日

「値段なんかどうでも良いから一番良いモノ見せて」というオーダー

ふとした所で見かけたのだけど、この「タイトルの注文」ものすごく試されてる感がある。
けっしてバブルな感覚ではなく、相手に対して、その人の仕事を見極めるには適したオーダーの仕方かもしれないね。

気づけば「予算が限られてるので」「今回はお安くなんとか」「安くてスミマセン」なんてオーダーばかりを受けてきた時代の中で、何度も「もっと予算があったら」「もう一歩このクオリティを上げたい」なんて、言い訳の様に使ってきた言葉。

そんな中で、「値段気にせず最高の仕事を見せて」と言われて抱える緊張感は半端ないなって。

最高の道具を使えば最高の仕事なのか。材料とスタッフと時間と。

でも、最高の道具を使えば最高の仕事になるとは限らない。最高の材料やスタッフ、時間さえもかければ良い物が出来るって訳じゃない。

それ考えた時、タイトルのオーダー。いやっ、その場の空気を考えると逃げ出したくなる。だって、そこにあるのは「自分の最大限出せる技術をここで見せてみろ」って事だもんね。

それに値段を付けるのも難しいかもしれないけれど、常に最大限の結果を生み出せる様な体制(体調かな?)を整えておくってのもプロとしての基本なのかもしれない。

「この値段だから、この位で良いだろう」という感覚で生き続けると、ここでしっぺ返しが来るんだろうな。

「値段なんかどうでも良いから、一番良いモノ見せて」というオーダーを受けた時、そこで相手を仕事で満足させられなかったら、二度とオーダーは無いわけで。
値段うんぬんよりも、先が無いのですよ。

ちなみにこのオーダーは飲食店。
結果的に出てきた料理は最高であり、オーダーした人を満足させたという。
年末に緊張感あるな。

頑張ろ。

2016年12月2日金曜日

保身しか無い糞ったれな自称教育者たち

高校時代、大学をどう選ぶか。
尊敬している人の出身校。尊敬している人が先生をしている。仕事をする上で必要な知識を得られる学校だから。そんなところだろうか。

どこの大学に行こうか迷った時、このご時世では「就職率」とか見ちゃう。
特に高校時代なんて、社会に対しては不安しかないわけで、何もわからないまま放り出される無知故の恐怖に対しては、この「就職できそう」という感覚は、曖昧ながらざっくりとした安心感がある。少なくとも僕が学生時代はそんなことをどこかで感じていたと思う。

就職率が高い大学は、時代的にも社会にとっても必要とされる知識を得られる。そんな大学なのだろうと胸を弾ませて入学したら、「どこでも良いから内定取ってこい」と言う研究室を持つ大学だった。とは笑い話にならない。

実際そんなことを言われた学生から相談を受けた。ひどい話だ。

就職は悪いことじゃない。社会で生活をする上では、よほどの金持ちでない限り、いや、金持ちであっても働くのは良いことだと思う。
その手段のひとつとしての「就職」という選択肢がある。

そう、あくまで生きていく上での「選択肢のひとつ」にすぎない。
なのになぜ、その研究室は「就職率を上げたい」のか。要はその研究室の教授は教育者としての能力がないからだ。
人を育てられないから、そうした「就職率」「内定数」で自分の評価とする。

まわりもチヤホヤするのかもしれないが、どれだけその人が糞かわからないままに、教師の言うことだからと、もがき苦しみながらも従おうとする学生もかわいそうだ。

でもね、そんな大学多いよ。残念だけどね。
入ってから分かる絶望感は半端ない。

あえてアドバイスするならば、学校に入るまで見えないことも多い。入ってから落胆したとしても、学生という看板を背負っているうちは、色々な場で学ぶ事ができるのだから、前向きにそう考えながら、自分の興味に素直に突き進むのが良い。

そして、「内定取ってこい」と一言でも言うような研究室へは所属しないこと。このあたりは先輩に聞けばわかる。「内定取ってこい」って言う教授は、1mmでも学生のことなんて考えていない。学校に残るための保身でしか言えないセリフなのだと、そこを理解すべきだ。

繰り返すけれど、残念ながらそんな「糞」な先生や学校は少なくない。特に「就職率」を一番の看板に据える様な学校は注意した方がいいかもしれないね。他に自慢する特色が無いって恐いよ。

なにか生きてる理由があるのかもしれないね

「出来ることなら今すぐ死にたい」と言うのを聞いて、そんな事言う人を眺めながら「まぁ確かにその状態ならその気持も分かるかも」と先日。
今までは一般論としての「なんてことを言うのだ」「そんなことは言ってはいけない」と答えていただろうけど、その時そう言わなかったのは違う考えが、ふと浮かんだから。

結果的に僕が口に出したのは

「どんなに苦しくとも、死なずに今生きているのであれば、なにか生きてる理由があるのかもしれないね」

と。

結局歳を重ねても、身体的な状態や健康状態などでも、生きる理由なんてあまり関係ないのでは?とその時あらためて感じた。子供の命と老人の命の大切さは違うのか。病気の人は、ハンデを持つ人はかわいそうなのか。

いろんな状態であれ、生きてる人は生きている。
見方によっては、それは残酷なもので、何も目的がなければただただ時間が流れていくだけ。

何かしらの好奇心さえも失った時が一番つらいだろう。
朝が来て、目が覚める。食事をして横になる。そしてまた夜がくる。その繰り返しを受け身でいるとつまらないだろう。

どんな状況でも出来ることはある。

生きている状況を活かせないのであれば、それはとても辛い時間となる。ただ過ぎていく空白。現状を嘆くことは簡単なことかもしれない。

何らかのハンデがあれば、それが辛いと嘆くものなのかもしれない。それは個性と言う人もいるけれど、案外そういうものなのかもしれないね。

「つまらないから、死にたい。」というのは勝手だけど、死なずに生きているのだから、やっぱ何かやった方がいい。ハンデがあっても、出来る事があればそれで良い。そこに正解は無いし、誰かと比べるものでもない。

どんなことでもいいと思う。空想だって良い。何か考えるだけでも良い。
ムダなことなんて無い、ただ何にしても前向きに能動的に取り組むほうがいい。

だから、反射的に、
「死にたいと言っても、死なずに生きているんだから、その時間を有意義に過ごす何かを見つけたほうが良いね。それは何かと考え続けることでも良い」

僕はそう思ったんだ。

2016年11月29日火曜日

支配者はいない

90年代の曲を聞いていたら、「支配者たちが〜」と歌詞が出てきた。
高度成長期からのバブル。それが弾けた辺りでも、ある程度人が動かせる社会だったのかもしれないなって思う。

実際今もそういう動きの役割もあると思うけれど、その経済ラインからは外れたお金の動きが大きいなって感じる。

二極化とか、貧富の格差とか言われているけれど、たぶん経済活動の流れの中で巨額の金額が動くビジネスも、比較的少人数で動かしている現状があるからだと原因をそこに感じる。

利益を分配しても得られる人たちは少ない。結果的に一人あたりの獲得も大きい。多数の人達から集まる売上が、少人数の人たちに入る流れはココがひとつだなって。

中間層が減るのもここ。

もちろんその理由はコンピューター。一人会社だって経営出来るし、デジタルコンテンツなら販売・DLまで管理ができる。

高度成長期には「宛名係」が居るくらい。きれいな文字が書けるだけで仕事があった。ワープロやPCでその人は必要なくなった。
経理ソフトがあれば、経理の人数を減らし、場合によっては他の業務と兼務できる。

どんどんと必要な人が少なくなる。

歯車と言われている時代の方が、もしかしたら良い時代だったかもしれない。
結構恐い時代に来ちゃったなって思う。

この先の未来にあるのは、ベーシックインカムかなって思う。経済を動かし、これだけの人口が生活を行う上で必要なサービスに、関わる人がどんどんと減っていく中では、仕事をして最低限の生活費を稼ぐという社会は崩壊しているんだと思う。

そろそろ世界的に次のフェーズ入ってるよね。

2016年11月8日火曜日

TokyoDesignWeek事務局が今からすべきこと。

トップページに貼られていた「場違いなメッセージ」は、ようやく入れ替えられた様です。多くの意見もあり、その反響に驚きつつの作業と思います。

そもそも掲載されていた本文は「関係者宛の連絡メール(またはFAX)」そのものを貼り付けたのだと考えています。でなければ、あの書き出しは無かったでしょう。
つまり、社会に対するコメントよりも、協賛社を主にした関係者へのメッセージを優先した結果と思います。それくらい社会を蔑ろにしています。

現状掲載されているコメントも、現状社会が求めている情報の提示とはかけ離れ、適したものとは言えません。

では、今事務局は何をすべきなのか。

・事件に対する事実確認として、事務局が把握している情報を全て掲載する。
・事件が発生した経緯を時系列で整理する。
・事件発生から事務局側の把握、判断と指示、各機関への連絡などの時系列で整理する。
・学生チームを管理していた運営事務局側の担当者の業務についての確認。
・TDW代表者個人のコメントの掲載。

本来こうしたイベントでは、参加者は運営者により守られるべきであると考えています。その理由として「その表現を許可したのは運営者だから」となります。
その会場内で起きた事故は、来場者にとって【「作家」の事故】ではなく【「イベント」の事故】なのです。

今回TDWの事務局はここの意識が弱い。だから他人事の様なコメントの掲載をしてしまうのです。

そして、社会はその解答を求めている。
その場でその時何が起きていたのか。今はSNSに流れる現場に居た人たちの証言からしか想像することができません。

事故時に入場を中止できなかったのは、事故を把握出来ていた人が不在だったからだと思います。であれば、その連絡系統や各機関への連絡など時系列で整理すべきです。
それによって、現場での混乱と中止判断の遅れなど把握することが出来るのです。

今、事務局が今求められているのは「説明責任」なのです。



コメントに関しても、ずっと連名に飾りとして掲げられた間に合わせの言葉ではなく、代表者のひとりとしてのコメントがあるべきです。
TDWの代表者と、学生作品の委員長の責任のなすり合いを見たい人はどこにも居ない。



そして、未来ある学生達をまずは守る動きをしてあげるべきだ。
彼らは大きなミスを犯したかもしれない。ただ、現実として起きてしまったことはあまりにも学生たちが背負うには大きすぎる。
ここからは周りの大人達がケアをしてあげるべきです。

誰を責めても、失った5歳の子の人生は戻ってきません。
我々は、とても悲しく悔しいのです。
この子の受けた苦しみと、この子の周りの方々の悲しみを繰り返してはいけない。
なぜ事故が起きたのか、なぜ巻き込まれなければならなかったのか、事故は複数の原因が重なった結果であることが多いのです。

多くのアートイベントの関係者は「他人事ではない」と口をそろえて言います。だからこそ、今回の原因を明確にすることで、他の場での隠れた危険を無くすことが出来るかもしれない。それがTDWの今背負う使命です。

TDWの事故は二度と起こしてはいけない。だからこそ、情報の明確な共有が大切なのです。デザイナーなら分かりますよね?「デザイン」を語る場に居るのなら、言葉の意味も分かりますよね?

今、デザインに出来ることはなんですか?
TDW代表に問う。

人気の投稿

Google+ Followers