Translate

このブログを検索

2018年2月10日土曜日

仕事での格差と物理的な距離感

仕事が無い的な話をニュースなどで読むと同時に、仕事を断っても入り続ける人の話を聞いたりする。もちろん後者は「休ませない」って環境に居るわけじゃなくて、高いプライスタグを掲げた上で、断っても仕事の依頼が入るというもの。

この差はなんだろう?って考えていくのが、僕目線の答えの探り方なんだろうな。

仕事が途切れない人・仕事が入らない人

価格を上げても、断っても仕事が切れない人の仕事は丁寧で、常に切り口が鮮やかであったり、効果も大きかったりする。仕事に於けるセンスの良さとも言えるけれど「世界に数人レベルの人材」って感じでも無いと思う。
同程度の実力持っている人は多々思い浮かぶし、評価も同じくらい高い。実際みんな仕事切れてない。ってことは、こうした人達に仕事が集中している。

一方でその反対。価格を下げても仕事が得られない人というのは、どんな状況なのだろう。なんとなく近くで思い浮かぶのは不器用って印象はあるかもしれない。
とはいえ、仕事が雑ということでもないと思うし、人間的にキケンという事でもない。
これ、この差の原因は環境なのかなって思う。

営業の方法が分からなかった自分

自分が生きる上で仕事を得ようとした時に、「トントンッ」と会社のドアを叩くことはしたことが無くて、そもそも「営業」って何をすれば良いのか分からなかった。
自分が売り込める具体的なネタがあった訳でもなく、例えば使えるスキルがどれほどの価値があって、社会や特定の会社にメリットを与えられるのかも分からなかったわけです。

当時、HTMLやJavascript、Flash、CGIなどは使えても、そのスキルが社会的に見て「どのレベルなのか」を測ることが出来ない。学校などで勉強していれば、少なくてもそのコミュニティの中では「誰よりもこれが得意」って言えたかもしれないけれど、独学ゆえのデメリットだったのかもしれないところ。

居心地の良いバーを見つけた

分からないまま当時知り合った人のバーへ夜な夜な通った訳です。理由は簡単で「毎晩面白い人が来る」というのと、「居心地が良い」ってだけ。
編集をやってる経営者の場だったからこそ、幅広いクリエイティブの現場で活躍する人達が出てきていたというのもある。
編集者ってのの顔の広さに驚いたり、その実力を見たりしたのがこのリアルな場でした。

CMやWEBの制作会社の人が「こんなこと出来る人いないのかな」なんて具体的な相談をマスターにする時もあるし、「僕こんな事が出来るんですよ」って人と飲みながら、新しい企画を思いつくってこともあったのだと思う。

何より同じ「場」を「心地よい」と思って通う人達だからこそ、大きく価値観が異ならないって部分もあったかもしれない。感覚的な共通点を持てる人を、場が選んでくれていたとも言えるかもしれないね。

仕事の依頼は引き出しにある人にしか出せない

そう、結果としてココに通うことで仕事を得ることが出来て、1度繋がってしまえば「この仕事はあの人に頼もう」ってなる。
自分が仕事を依頼する側になって思うのは『自分の引き出しに入ってる人にしか頼めない』ということ。

「アーティストありき」であれば、企画段階から交渉して組み立てていくけれども、大概仕事って限られた納期に対して、要望をクリアさせる必要があるので、自分の知っている人を頼ることが多くなる。

新しい人を巻き込むことで、プロジェクト全体に良い緊張感や新しい風を通すことを知っていても、失敗のリスクを考えると「どれだけ信頼できるか」を納品日まで悩むより、ある程度結果を持っている人に頼みたくなる。外せない仕事ほど、信頼できる人に頼みたくなる。(皆、それをベストな選択とは思ってないんだけどね…。)

結果として、多少価格が上がれど「この人に頼みたい」ってことに繋がっている。
実績も貯まるし、失敗するプロジェクトもあれば、数を経験することで成功事例も増える。この部分は良いスパイラルね。

業界の輪は会社の中にあるわけじゃない

自分がやりたい仕事や業界の人達の場に潜り込むって事が、自分が仕事を得る上での近道だと思う(学生にすすめてたりする)のは、こうした経験から。
で、こうした場はどこにあるのか?っていうと、やっぱり世界中見ても集中するポイントがある。海外に於いては業界ごとに街があるし、僕がその時夢中になってた「Web」やら「新サービス」関連は、東京の中なら渋谷恵比寿青山西麻布とか?

僕が当時通ってたのは原宿で、外苑前とか表参道あたりも、その日に誰かが居る店をなんとなく知ってたかも。
今となっては、どこも知ってる店は無くなってしまって、気づいたら新しいお店になっていたり。でも、時代にあった良い場所が必ずある訳で、そうした場へ自分が居ることがその業界の仕事を得る上で早いんじゃないかな?って思うのです。

就職しても外の人と繋がりは大切

仕事を得たいのであれば、仕事を依頼する側の頭の引き出しに入ることが出来るか。が重要になってくるので、ポートフォリオとしての簡単なサイトを作ったら、営業が下手な人ほど、夜な夜な遊びに行くってのがオススメです。狭い店ほど話すキッカケが作りやすくて、人見知りな人 は狙って行っても良いかも。
誰かに連れて行ってもらうのが一番で、そこで店の人に紹介してもらえれば、次からは一人でも行きやすい。

その場所自体が楽しくて、遊びに明け暮れちゃうタイプの人もいるけれど、それはそれで幸せそうだったりするから、良いのかなって思ったりもする。気づいたら経営側に入ってるなんてこともあるし。

就職とかで「これで業界の友達沢山できるぞ」って思うかもしれないけれど、実は会社を軸にしてしまうと、とても限られたリソースしか得られないことに気づく。それに落胆したりする新社会人もいるのでは?
遊びに行くのも、趣味を通しても、会社の文脈から異なるリソースを持つことで、自分の世界は大いに広がることは知っていて良いと思う。

ネットがあっても物理的な距離は重要

物理的な距離って大切だと思う。
「今週ちょっと打合せできませんか?」とか「今日なんですけど、どこかで相談できませんか?」なんて話は『距離』そのもの。

やりたい仕事に対して「住む場所」や「遊ぶ場所」って選択は重要なのでは?
もし「やりたい仕事」に近づけていないのであれば、「住む場所」「遊ぶ場所」を考え直してみるというのもアリかなって思うのです。

2018年1月25日木曜日

学生のクラウドファンディングに支援したら面白かった話

大学の非常勤ってことで授業することでお金もらっている立場なんだけど、僕自身学生達の意見をフィードバックしてもらったりしてメリットも多いので、基本的に貰った報酬は学生の為に全てを使ってる。仕事に関するアンケート応えてもらったりしてるしね。

特に僕自身が赤字を出す(身銭を切ることは)ことはないので、このお金の使い方は無責任で面白い。(本業じゃないから、この収入にしがみつくのもどうかなって思う点もあるし…ね。)

そん中で今年度は学生が行ってたクラウドファンディングに支援してみた。
友人が教える大学の生徒さんだったのだけど「研究の中でもう少し自由に使える資金があれば…」というのをFacebookのその友人のシェアを通じて見かけたのがプロジェクトとの出会い。これが学生のプロジェクトへの支援のキッカケとなりました。

実際に支援をするまで

以前から一般的なクラウドファンディング自体はちょこちょこと参加してたんだけど、知り合いのプロジェクトだったり、最新プロダクトの先行発売みたいなものだったり。
ある程度背景が見えていて、リターンも分かりやすいモノが多かった。

だけど、このFacebookのTLに流れてきたプロジェクトはちょっぴり毛色が違う。

使用目的は学生の研究資金というモノだったし、リターンも特に無くて支援者側のメリットは薄い。というか全く無いの。
支援で集まった資金の報告義務も無いので、支援者側の発言権があるわけでもない。完全な善意というか、支援するなら支援者側の自己満足案件。

でも、プロジェクトを立ち上げてる学生側は真面目で、研究目的やそのテーマを扱うことに至る経緯や、プロジェクトに対する思いなども簡潔にしっかりと綴ってる。
学生の研究ってことでゴールする約束も無いんだけど、会ったことも無い相手ながらとても信頼出来るなって思ったのと、何より研究テーマにものすごく共感出来たこともあって支援を決めた。

で、ここからは全てのクラウドファンディングと同じなんだけど、そのプロジェクトが登録しているサービスへのアカウント登録が面倒くさいのね。お金払うだけなんだから、ユーザー登録とか要らないよねっていつも思う。どうにかならないのかな?(もしくは、サービス乱立させないでくれ!って思う)

結局1万円弱を支援しました。
1口が中途半端な金額だったから、1万に近い金額分ポチポチと…。これも面倒だったな。はじめから「10口支援」とか選んでワンクリックで済めば良いのにね。

さて、それでプロジェクトが進むと思いきや問題発生。
仕方のないことなんだけど、学生側の環境に変化があって延期となってしまいました。なので、まだ現在続いている案件。もともと何か明確なリターンを狙っているわけではないから、怒る人も居なかったと思うけど、このあたりが今回の楽しかったハプニングでもある。

経験を通して感じたこととか

今回のことで一番楽しかったのは「見返りを求めない」って部分でありながら、多くの経験を体験させてもらったことかなって思う。
知らない人を応援するって行為は新鮮だった。それも接点が無いからこそドライな関係でしょ。たぶん近くに居る相手だったら口出ししたくなったと思う。だから全く期待しない(悪い意味では無いんだけど)ことで、今までに無い新しい関係が生み出された訳ですよ。スタバの言う「サードプレイス」じゃないけど、家族や仕事相手、遊び相手や同級生みたいなのと全く異なる新しい人間関係。

未だにこの関係を的確に示す言葉が思いつかないんだけど。会ったこと無いけど知り合いみたいな。何かで評価されるのを見ると、ちょっと親気分というか、相手からしたら「メンドクセ」って思うかもしれないけど、互いに勝手な感情が持てるのも良いよ。

なんかさ、若手のアート作品とかでも面白いモノに出会ったら無条件で投資したくなったりする様になったのよ。作品を買うってことも選択肢だけど『まだまだ作品自体は未熟だから、この延長線上にある未来の新作を見たいって気持ちとしての「支援」』みたいな。

こういうのカジュアルに出来る様になると良いよね。

話は脱線したけど、、、
僕が仕事してる間に、興味ある研究なりプロジェクトを進めてくれる人が居て、そこに関われてるって感覚だけで刺激もらえるなって。それが1万の使い方としては、とても有効だと思ってるし楽しい。

支援するってなんだろう?

限られた「生きる」時間の中で、より多くの経験を得る手段として、このスタイルはありだと思ってる。

最近は、誰かに支援するって面白いなって思ってきた。

普段の仕事でもプロジェクトに学生が混じっていることも出てきたし、プロジェクトリーダーが年下なんて当たり前。
結局立場や役職に年齢や経歴は関係ないのよね。経験の濃い薄いも、そのあたりじゃ測れないようになってきた。経営もクリエイティブもセンスです。

一度クリエイティブを離れた人間なんだけど、またクリエイティブに戻ってて、その立場から言うならば…。
自分より良いクリエイターを見つけたら、自分はそのクリエイターの活躍する場をつくることが仕事だと思っていて、そうしてディレクターやプロジェクトマネージャー、プランナーの立場で仕事をしてきたんだけど、そういう視点でも「クラウドファンディング」は同じ役割を持てるんじゃないかなって思う。

更に相手が、今の自分と全く異なる立場の「学生」って面白いよ。
プロジェクトがそこを繋いでいるというのも良い。

で、その学生に色々聞いてみた。

全く知らない人から支援されることの抵抗とか無かった?とか。

やっぱり戸惑いはあったみたいだけど、その点は若さ故の適応力の強さ。その状況を直ぐに対応してること。「自分のプロジェクトをどこで知ったの?」って思いつつも、「この人達は自分に賛同してくれてるんだ」と素直に受け入れられたみたい。

バイトでも必要な資金を得られるのでは?って質問に対しては、「金額に関わらず、使う際に『プロジェクトを成功させたい』というモチベーションが上がる」とのこと。これ使う経験としても貴重な経験なんじゃないかな?
「会社の経費は使えるだけ使ったもん勝ち」みたいな会社員も少なくないし。笑
経営者視点としては、こういう経験をしている若手を雇いたいよね。

「同じお金であっても想いが加わったお金だからこそ、他のお金とは異なる」って話が印象的でしたわ。最近、西野さんがやってる「レターポット」の話に繋がるかもしれないなって思った。貨幣価値みたいな部分。

来年度から本格的にやってみようと思う。

幸いに来年度も学校の授業持てるみたいなので。笑
より積極的に学生のクラウドファンディングを探しながら「これは!」と思う人へ積極的に支援して行こうと思ってる。

今回の学生と同じ意見なんだけれども、たぶんこれからもっと学生のクラウドファンディング活用は増えてくるよね。実際にはまだまだ知名度の低い「クラウドファンディング」だけれども、主だった宣伝はSNSになるだろうから、TwitterやFacebook辺りをメインに掘っていこうかなと。

ビットコインのマイニングよりも絶対楽しいと思う。












2018年1月24日水曜日

自動車って視点から考える、未来と生活と

パーソナルモビリティのジャンルは、シェアという考え方へ当たり前のように意向している。もちろんそれは絶対数の縮小を示している訳で、そこに対するメーカー側の考え方がとても大切だなって見てる。

いまでも「クルマ離れは税金が高いからだ」とか、「もっと面白いクルマを作れ」とか言う人達が時代を遅らせていることに気づいてほしいなと思う。今そこの視点を持ってる人は居ない。
クルマ好きは特殊な趣味として所有するだろう。そうでない限りクルマは共有する移動手段でしかない。
モーターショーの縮小に対して、アフターマーケットのショーが盛り上がっているのは、既に世の中がそうなっている現れ。

ダイムラーとBMW、カーシェア事業を統合へ
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO2606605024012018EAF000/?n_cid=SNSTW001

メーカー側が運営するカーシェア事業は、市場で求められるカスタムに対応しやすいので、開発スピードのPDCA面でメリットが大きそう。計画、実行、評価、改善の流れが進むことで、ユーザーや社会の求めるモビリティに近づけられる。
CAR2GOも、DriveNowも、それぞれメーカーが運営している。日本でのカーシェアは駐車場業者が運営している。特に都市部で便利に使われるカーシェアだけに、自動車文化ではない日本では、駐車場問題を抱えるからこそ、そこの相性は良いのだと思う。ただし、この違いが後で大きな差を生み出す気がしている。

日本でメーカー側が参入するとしたら、どこを基地にするか悩むだろうし、貸し借りの出来る場所の数がサービス満足度にも直結しているのだから、リスクも大きい。
販売店は別会社だからこそのデメリットが響いている気もする。auのケータイを売るだけならスペースも取らないけれど、メーカーからの要望で販売店が出来ることとしてはEVの充電設備を置くのが精一杯だろう。

パーソナルモビリティの共有化という点で、今後切り離せないのは「自動運転」だろう。
常に必要とする場へ移動し、人や荷物を目的の場所へ自動で安全に送り届ける。
2018のCESではトヨタの章男社長が登壇していたけれど、この辺りの実証としては海外がメインになっていくのでは?とも思う。(日本は移動や流通面で、地方都市のあり方が大きく変わっていく気もしている。人口減少で都市部に人が集まり、地方の役割に向き合えない産業は残れないだろう)

追従型の連結システムは物理的に連結をせずに最小の人員で大量の輸送を行うことが出来る。鉄道のメリットを持ち、特別なインフラ(レール)を建設することなく、既存の道路を使えるのだから、コストも大きく変わる。

日本の自動運転の流れとして実現されそうなのは、道路にマーカーを埋め込むシステムなのでは?と今は話が上がっている。どうも世界の流れからは特殊な分類になりそうで、そうなると海外勢(外車)は参入しずらくなりそうだ。(また天下り産業かな…)
日本のシステムに合わせてハードやソフトを開発するだけの売上が見込めるとは思わないよね。
逆に海外勢のクルマを喜んで購入する層は、あえて個人所有するほどのクルマ好きとなるのだから、そこを無理に合わせる必要も無さそう。
ただ、それによって「自動運転不対応車両の導入不可」となった場合、選択肢が減ることを指す。ここは不明だけど、ちょっと不安。


で、気になるのは日本の自動車産業勢。海外で需要を生み出し、売上も実現していくとなると、日本で税金払うメリットあるのかな?トヨタが世界の産業となる上で、日本の会社である必要が無いって思われた瞬間、日本の自動車産業神話もいよいよ崩れそうな気もする。

そんな中、時代に先行してやりたい放題なのがテスラ。
約50万のオプションとしてレベル4のシステムが使える様になっているとオーナーに聞いた。まだ法規制としてそこまで対応出来てない気もするんだけど。笑

スマホのアップデートの様に、ちょこちょことシステムが更新され、ある日突然前日まで無かった機能が追加されていたりするらしい。「突然現れたマークなんだろうって思ったらオートライトになってた。」とか。

自動車のあり方や付き合い方も完全に変えてしまったテスラは既に生活の中にある。電気やガソリンでどうのこうのって部分とは全く次元が異なって、未来始まってるなって思う。

趣味の世界と、生活シーンと、そして働き方と、
色々な面で「自動車」って産業を覗くだけでも考えさせられる箇所が多いなって思ってる。そして、つづく。

2018年1月23日火曜日

無料のサービスがアーティストを殺す日は来るのか

「CDが売れない。Youtubeが音楽業界を殺す。」そんな意見が多かったのも一昔前。そもそもCDなんて特定のアーティストの握手券代わりでしかなく、音楽を購入するのもネットを通してダウンロード販売ばかり。
今や聴き放題のストリーミングサービスを利用する人が多いだろう。

個人的に、聴き放題のストリーミングサービスは、ラジオ業界のライバルだと思っている。作業中や移動中、今まで新しい音楽に出逢うのはラジオだったけれど、今はストリーミングサービスのシャッフルで出逢うことも多い。
あとはYoutubeの音楽ミックスリストで、チェックしてるアーティストの傾向から繋がるPVで音楽に出会い、そして購入することもある。

CDが売れないのはハードの問題が大きかったってことがひとつ。時代に合っていなかったし、「音楽を買う ≠ CDを買う」ということに発想が追いつかなかった経営陣の古臭さだけが残った。

欧米が先行してYoutubeに公式でPVを流し、積極的なプロモーションを図った。結局は僕と同じように自動のミックスリストから新しい音楽やアーティストに出会い、音楽を購入したり人気を高めて、ライブなどへの出演、コマーシャルなどへの露出と繋がっていく流れを見た。

人気度に応じて広告が繋がる世界は、「広告」の業界っぽくて分かりやすい。何が正義か?という問に対して「市場の人気」というバロメーターはリアル。
結局音楽は求められ、アーティストへお金も落ちる。一番難しくなったのはレコード会社だと思う。Youtubeなり、ストリーミングサービスなり、他人の土俵を使いこなしながら、戦わなければならない。

上手く動かせば無駄な投資は避けられるけれども、そのサービスが消える事を常に怯える必要もある。「Gmailが明日から有料」となった時に、困る人達がどれだけ居るか考えれば分かる。便利に無料で使いこなしたサービス程、依存性が高くなる。

アーティストの人気指標が「CD売上」ではなく「ストリーミングなども含めた再生回数」で見るというニュースがどこかにあったハズなんだけど(今見つけられず)、消費者の環境の変化はそういう部分に出ているのかもしれない。

なんて、ひとまず落ち着きの見える音楽業界に次いで、Twitterでは漫画業界が騒がしい。



「無料で読める漫画サイト」が漫画家を潰す。と。
主張はもっともで、無料で消費されることで販売数が減り、重版どころかシリーズ継続も難しくなる。そして漫画家に報酬が払われないと。

これは現在の漫画の仕組みに問題があるとも言えないか?
出版は印税として販売された売上によって報酬が支払われる。ある程度実績があれば、契約によって原稿料も多めに払われるのだろうけれども。ただ、そもそもの原稿料が健全な金額か否かはわからない。

普通の業務でこういう実態あるかな?

マンガ業界は経験ないのだけれども、一般的な契約としてリスクを追うべきは出版社の立場で、その計画している販売部数に応じて仕入れ、つまり健全な原稿料を先払いすべきでは?
この「仕入れ」について、対象となる漫画家は満足行く金額を原稿と引き換えに受け取るべきなのでは無いだろうか。
「売れた部数により支払いする」という印税は、出版社側のリスクが低すぎる。

逆を言えば印税はボーナスであるのだから、そこを頼りにするのではなく、原稿料として十分に潤沢な費用を請求し受け取るべきだ。いくら売って出版社が儲かったとしても悔しくない金額を。考え方によっては、印税は無い方が良い。

例えばweb広告の中で漫画家へ仕事を依頼する際に、サイトのビュー数に応じた報酬契約なんてしない。ボーナスも設定しない。「原稿何枚に対していくらか」という契約で作品を提供してもらっている。僕が関わったのは環境省のキャンペーンや、デジタル機器のスペシャルサイトなど複数あるが、どれもそういうモノだった。
そりゃそうだよね。サイトの宣伝や対象となる商品などに魅力が無いからってビュー数が減ったとしても、それは漫画家の責任じゃないし。

本の流通に於いて、取次業が受け付けている「返品」という流れについて考えると、今度は出版社の持つリスクが大きい。本屋は委託と言う預かりに過ぎず、万引きなどの犯罪に悩まされつつも、売れない本は返品して新しい本を棚へ並べる事ができる。

結局は、本の流通過程に於いて、本屋のリスクを出版社へ、出版社のリスクを作家へ押し付けている構図がいびつなのではないか?

で、漫画家が文句言うってことは、原稿料も「印税」を見つつ低めに設定されているのでは?本来は出版社が文句言うべき案件だから。

違法サイトは褒められたものではないけど、それによって漫画家にシワ寄せが行くのはちょっと話が違うのでは?末端の一番弱い立場だから何も出来ない。

たとえ違法でありながらも、そこにサービスが続く限り、人はそのサービスを使ってしまうのは現実的に仕方が無いことであり、そこをモラルに訴えたところで、優等生が騒いでる程度で、使いまわす側にとって何の効力も無い。

まずは「本」にまつわる古い業界の流れから外れること。そして、作家が直接利益を得られる仕組みを生み出すこと。(Youtubeの場合、著作権侵害の場合はその広告料が著作権を保有している人に流れる仕組みもある)

何より、「あいつは違法だ。悪いヤツだ」と騒いでいても効果が薄すぎる。見せしめとして取締対象となっても、他のサービスが立ち上がってしまえば意味がないのは指摘されている通り。

だったら、新たな仕組みを生み出せば良い。
嘆いてばかりでは、何も始まらない。困っている立場だからこそ、生み出せるヒントがあるはず。

騒いでいるだけでは、結局暗い未来しか見えない。チャンスとは言いにくいけど転機ととらえて、関係者は新たな一撃を生み出すときだと思う。

社会へ期待をする人

「今の社会がクソ」とか、「こうあるべき」とか、「ここが変だ」って言葉はあるけれど、発言する人は皆『社会への期待』が大きいのだと思う。

たぶん「社会」と呼んでいるものは目の前に広がっているものであって、この社会そのものも長い時間をかけて変化してきた延長線上にあるものなので、先人の『より良くしよう』とする行動や思想の結果。それを「社会」って呼んでるんだろう。

実際、文句を言って生きている人達の理想とは程遠いだろうし、本当に理解出来ない事も起きるし、その理解を超えた物事に驚く事は多い。「こうすれば良くなるのではないか」って話も通じないのが現実で、理解を超えた人達が狭い地域に共同で生活を行っているもの=社会なんだと思う。

もちろん、同じ考え方で共感する人達はいるので、そうした人達が繋がることで居心地の良いコミュニティは存在できる。ただ、それを広げ過ぎたり、他者へ強要したりすることでバランスが崩れたりもする。

「社会」への不満を持つ人は、過剰な期待をしすぎているのかもしれない。ちょっとした成功事例を持ち出して「私が心地よいのだから皆心地よいはずだ」と、丁寧な言葉を使いながら暴力的な意見になっている危険性はないだろうか?
だとしたらその解決策はひとつ「諦めること」だと思う。

ここでの諦めは、全てを放棄することではなくて「期待」を止めること。
期待は時に他者への強要でしかないから、それによって近くの誰かが居心地悪いと感じる事があるかもしれない。

正義の味方は誰にとって味方なのか。自己の利益を追いかけた末の正義があるのかもしれないし、それは当然全ての人達には受け入れがたい。

他者が自分の期待通りに永遠動くことはまず無い。それは全て自分の思うようにはいかない事を示している訳で、社会全体が自分の望む様に動くはずがないことでもある。

例えば、
SNSの裾野が広がることで、僕のブロックリストは日々増え続けている。

時に反対の意見や、同じモノでも異なった視点からの意見は大切だし、そうしたものは大切にしている。でも言い方もある。
語彙力が優れない人や、意見の内容以前に感情を叩きつけてくる人は、自分の気持ちを穏やかに保つ為には見ないことがベターだと考えてるから、日々ブロックリストは増えるのだ。

その上で、自分と異なる意見を言う人達をどれだけチェックするのか?というは、ひとそれぞれで、精神的な健康状態にも左右されるよね。
キツかったら切り離して、納得するなら取り入れる。自分の意見に同意する人だけを集めることも出来るだろうし、それは危険だなとは思っても誰も規制はしない。他者は他者であって関係は無い。感情を穏やかにさせることが、日々の冷静な判断につながる。

SNSは例えに収まらず、社会の視覚化だと思っている。
社会でも同じように選択して生きれば良い。

SNSの様にフォローしたり、意見を伝えたり、応えたり。そしてブロックしたり。
社会も『場』であって、ルールを犯せば取締がある。でも基本的には自由の場。

社会の期待は、他者への期待でもある。でも他者は期待通りに動かないのだから、不満ばかり増えることになる。メリットは無い。

その代わり、自分への期待はメリットがデカイ。

社会へ大きな期待を持っている人は、まず自分への期待を大きくすると良いと思う。他者へ強要することより、自分をより良い場へ導く良い手段が見つかると思う。

結果的に自分が見る「社会」はより良い方向へ変わって、理想の『社会』に近づいていくでしょう。

2018年1月11日木曜日

社会で活躍するデビューが早く、引退も後退。人間の賞味期限が長くなってきた。

これからの時代はライバルが多い。
今までは高校や大学を出て、それから社会に出るというのが一般的で、その流れから考えると大きくても4年の差くらい。学生時代の4年は大きくても、社会に出れば誤差でしかない。学歴だって、仕事が評価されてくれば、自分が思うほどコンプレックスにはならない。仕事に結果を出すまでが苦しい時代かもしれないけれど。

でも、そんな平和ボケ状態は今は通用しなくなってきた。中学生だろうが、小学生だろうが、社会に参加してくることが普通になってきた。どのジャンルでもそう。
「プロ」と呼ばれる人達の年齢が大きく異なってきたかなって。(あえて言うなら、スポーツの世界は変わらないのかも。出場出来る試合などで、条件として年齢制限があったりするから。)

色々と話題の企業のインターンの経歴を聞いて驚いたことがある。「学歴」なんて高校中退とかだったりだけど、数千万〜億の経済を十代で動かしてる実績を持ってたりする。お金を稼げば成功とは言えないけれど、それだけのお金が動くことは、影響力のバロメーターとして見ることも出来ると思う。
それだけの影響力は、アイデアと行動力に他ならない。元々巨大な経済力を持っていたとも言えないし、そういう視点では若さや無知故の強さもある。もちろん周りの環境に差異はあるだろうけど、持っているモノを活かしたのは才能故。

日本での学歴神話として「大学を出て、就職して」って流れの中に浸っていると、「さて、就職しようかな」なんてタイミングで世界から取り残されているのを知って愕然。(─ でもなんとか少しでも知名度のある会社に就職して…なんて流れで動いてると、それを雇う側の企業の未来も不安でしかない。大学の新卒を条件に求人とかしてる企業をそういう目で見ると、ちょっと恐いよね。でも、生きていくことは出来るんじゃない?否定はしないけど、僕は嫌だな。 ─)

表面的な謳い文句や誘い言葉は違えど、この考え方が僕の大学生の頃と根本は変わってないと思う。僕が大学を卒業した20年前には「パソコンなんて出来なくても良い」って大学で言われちゃうくらいの時代。やばいよ、デジタルの原始時代。

何かに興味を持つことも、取り組むことも安易で接点が増えてきた。色々な情報に貪欲になればなるほど、より詳細な情報に辿り着ける。逆に興味さえ示さなければ、何にも出会えない格差が広がる。
アイデアと技術力があれば設備投資をそれほどせずに結果を生み出しやすい時代とも言えるかもしれない。それは「デジタル」って領域の話だけでなくて、あらゆる分野で安価に試作を作れる選択肢が増えたってことでもあると思う。3Dプリンタやレーザー機器を珈琲飲みながら借りれるカフェが普通に街の中にあるわけだし。
特集機器が必要な動きでも、扱える人を探し出すことが容易になっているし、その対象が全世界なわけだから。
(─ デジタル領域なら設備投資必要ないってのは、それこそ20年前の話かもしれない。僕がMacを手に入れて、テキストエディターでHTMLを手打ちしてサーバにアップロードすれば、それなりの報酬が得られた時代だったのだから。─)

自分が大学生の頃と比べると、この20年の変化はペリーが黒船乗り付けた以上の変化があると思う。

それで、いわゆる若年層が社会に出る機会が増えている理由で、高齢者側も社会で活躍する機会が増える。必要な技術力と発想力があれば、社会で活躍しつづける舞台はあるということ。
勿論体力、行動力や発想力は若さにはかなわない面は出て来るけれど、そこは経験という武器を使って無駄な動きを抑えることでカバーできる。
まぁ、必要以上にガツガツしないからこそ、省エネ稼働が出来るとも言えるのかもしれない。



社会で活躍するデビューが早く、引退年も後退。
人間の賞味期限が長くなってきた。

その時代の流れが仮にスタンダートとなっているのであれば、やっぱり60歳とかで「定年だよ」とポイっとされることの怖さは例えがたい。まぁ、その年齢になってないから予測出来ないとも言えるけど。
(─ サラリーマンならサラリーマンなりに、自分の価値としてのスキル付けておく必要がある。組織から切り離された時に、自分は社会の中で何が出来るのか?幸いに日本では手厚いフォローがある。しっかりと行政の情報を得て従うことで、殺されることは無い。時代が変わる中で対応は変わるだろうけれど、将来を必要以上に悲観しなくて良いとも言える。ここは別の話。─)

視点を新卒者に戻すと、
現実的にその賞味期限が長くなってきた社会で、大学をのほほんと出てきた人間がいきなり戦えるのか?って言うと、結構難しいと思う。思想が時代に取り残されているのだから。
新卒とか学歴って看板持ってても、社会で通用する実績持ってる人は少ない。こういう話すると「実績あります」と閉じた場での評価を持ち出す人もいるけど、社会的な影響力として考えれば弱いモノが多い。
むしろ、それを種にして、何を社会に生み出すのかのステップを踏めていれば、それは既に社会に評価されることになるだろう。
それがない人が大半だと思う。

もちろん、今社会で華々しく活躍している人達も、いずれその一線から退くタイミングが来る。その時に舞台に上がっているのは今の若手だと思う。
それは10年後か、50年後か、100年後か…。100年は言い過ぎとしても、いずれその時は来る。君たちの時代は来る。

今華々しいスポットを浴びていなくても、悲観せず。それよりも自分の興味に対して貪欲になることが大切だと思う。

下は小学生くらい、上は体力のある限り。という人間達がライバルになり初めている世界で、君はどう戦うのか?全員がライバルなのだから。
20年前と同じ戦法を取って歩んできただけでは、戦える時代じゃ無いと思って社会に臨んで良い。日本人の大半が大学卒業という同じ道を歩みつつ、生まれる違いは「意識すること」だけだと思う。(─ 大卒が当たり前になればなるほど、大学を出る必要も無いとも言う。むしろ個人のスキルこそ重要になるよね。 ─)
その上で楽に生きれる場を見つけられたら、それは勝者かもしれないね。

2018年1月5日金曜日

カッコ良く生きるということ

「カッコよく生きてください」そんな言葉をもらったのが3年前。それ以降、ふとした瞬間にこの言葉が頭に浮かぶ。「カッコよく生きれているだろうか」と、いつも考えてしまうけれど、答えは毎回出てこない。

カッコよく生きるって、たぶん誰に評価されるってことではなくて、自分自身で納得出来ているかどうかなのだと思う。
外見だけを変えても何も変わらないけれど、良い服を着ると背筋がピッとする感覚は心地よいのは知っている。どちらがカッコ良いかと考えれば、お気に入りの服を着ているのは分かるよ。でも、このあたりは追い求められてない。

「朝起きて寝るまでにやりたい事をする人間が成功者だ」ってメッセージも、何歳かの誕生日にもらった。
いつ何をしても許される生活ではあるけれど、やりたい事を全てクリアしているかと言えば、そうでも無い。なんだかんだと無理なく出来る事を探している感じ。

まずいな。「カッコ良い生き方」から随分と外れている。

自分がどこかで納得出来てないのは良くない。

欲望が常にあるからこそ、ずっと探り続けて、模索して、探して、求めて、考えて、脚を運んで、手を伸ばして、そんな生き方が一番人間っぽいと思う。

そういう意味では、ずっと欲望に正直になることが出来るようになった。そう思う。
もちろん周りのサポートが強いのだけど「遠慮せず手を伸ばしなさい」と声をかけてくれる人達が居るから、自分らしくなれるのかもしれない。

どこで人と出会って、どう生きていくのかなんて、誰にも分からないし、予測もつかない。ただ自分の「好き」には正直にあるべきなんだなってことだけ分かってきた。

いろんなことに挑戦出来て、その成功体験から次への欲望が生まれ続けている。
「こんなことをしてみたい」と、具体的にそれを実現させる手段は分からなくても、少しずつそこに近づく事は出来る。そしていつの間にかそれを実現してる。そんな生き方。

夢は叶うと言えばそれまでだけど、たぶん願うことが行動につながって、結果的に自分をそこに近づけているだけのことなんだよね。
だから「どれだけ強く思うか」が、行動のクオリティをあげていく。失敗をしても次の一手が早まるだろうし、一歩近づけば、更に次の一歩が踏み出せる。その繰り返しのスピード感は「願い」という気持ちに比例するんだろう。

いろんな束縛が見えない鎖となって縛っていることがある。ある種の「呪い」なんだろうけれど、ずっと規制されることで芽生えた価値観はなかなか変えられない。
「社会がそう言うから」と繰り返されれば、それが「社会というものさ」となる。それは一生つきまとうものなのかもしれない。

「呪い」は、なるべく早く解き放つ方が良い。

生き方に正解が無いのは、全てのルールに正解が無いのと同じことなんだと思う。結局は本人がどう解答を導き出すのか。
その解答は、その人自身の価値観であると思う。

カッコ良く生きるということは、その人の価値観に応じて、その人の人生を正しくおくることができるか。価値観に合致すればカッコ良いのだ。

今居る場所を正しい場所、道として信じ、そこから踏み外さないことに全神経を集中させる生き方もあるだろう。
今とは違う場所を見つめながら、もしくは空想しながら、そこを正しい場所、道と思う生き方もあるだろう。

どちらもその人の生き方。

僕は今、この生き方や生活に満足しながらも、もっと理想的な場、道があるのだと追い求め続ける生き方。
ずっと満足できないけれど、ずっと楽しめる生き方なんだと思う。

出来ることをする。やりたい事をやる。その日の一歩を正しいと思う方向へ進める。
もっと動きは早めても良いかもしれない。時間が足りない。

人気の投稿

Google+ Followers