Translate

このブログを検索

2017年10月12日木曜日

無料のセールスマンが世界中にモノを売る時代だね

YoutubeでMVを見ていると、好きなアーティストの傾向から知らないアーティストの曲を流してくれたりする。
テレビを見ない(調子悪くて見れない)生活になってから、新譜を知るのはYoutubeになった。ラジオよりも情報が早い。もちろん古い音楽も掘ってくれるし、音楽に積極的でない人間としては、Youtubeバンザイ。

もちろん気になったらiTunesで即購入。昔よりハードル低いのは1曲ずつ売ってたりするからだよね。

好きな曲を買う為に、3,000円のアルバムを購入するのは今でもドキドキ。でもその中にマイナーながらお気に入りを見つけちゃったりする「出会い」もあったりするのが、アルバムの楽しさだったかな。
その役割をYoutubeがやってくれているんだよね。

ビックデータなのかAIなのか、ユーザーの好きと嫌いからある程度の傾向を見つけて提案してくれる精度はどんどん上がっている。Youtube上で過ごす時間が増えれば、それだけ精度が上がるというもので、そうするとやっぱりYoutubeの居心地がよくなっていく。

音楽づくりという面では、アルバムづくりを横でずっと見ていた経験がある。曲作りから、アルバムへの挿入選択、アレンジやらチューニング。曲と曲の間のタイミングまでを細かく調整していく。
そう、CDであってもアルバムづくりでは「曲と曲の間」を積極的に作っていたんだよね。

絵で言う、図と地の地の部分。余白とか、そういうの凄く大切。

それが、CDの再生方法の段階で崩れて、iTuneなどでの購入によって完全に崩壊した。
1曲ずつ購入する人にとって、間の余白なんて関係ないし、環境に依存するからアーティストには制御不能。
アルバムづくりの姿勢も大きく変わっただろうなって思うよ。

Youtubeで無料で流すと売れなくなるのでは?なんて声がずっとあったし、今でも日本では見え隠れするけれども、海外勢がこれだけ新譜を公開していく理由を考えてもいいかもね。

もちろんYoutubeでは広告入れればそのまま収入になるのだから、完全無料を避けることも出来るとは思うけど、曲の購入に繋がる機会も増えているはずだよ。

10曲3,000円はちょっぴり躊躇するけど、1曲300円は簡単に買える。しかもお気に入りの曲だし、パソコンが壊れてもアカウントと紐付いてDLが簡単だし。

本の世界では無料だ有料だと、キンコン西野さんが話題だけど「購入層の目に触れること」って一番大切だよなってYoutube見てて思う。
知らなければ買えないのだし、買おうとも思わない。
欲しいと感じたら、やっぱり便利なのはネットの上の無料よりも、手元にあることなんだよね。本なんか実際そうじゃないかな?

無料が良い悪いは結論つかない議論っぽいけど、サンプリングと露出って考えた上で、それぞれの既存サービスが優秀になればなるほど、勝手にセールスしてくれるわけだから、それらは利用するべきだよなって思う今日このごろです。

フリーの立場での長期休業という不安

仕事を長期間休業する。フリーの立場であれば、そこにある怖さって伝わるものかもしれない。なんとなくその感覚を持っていた。

そんな中で、とある記事にあった一言。
「あるアーティストは表現に枯渇したとき、自然に数ヶ月こもった」と。

そこから感じたのはインスピレーションの充電方法や、メンタル的なバランスの取り方とかではなくて、働き方。(休息の方法は人それぞれだから参考にならない)

このアーティストは4ヶ月こもった後にも、必要とされる場がある。仕事をしながら、それだけの支持を得る場を作り、伝え、自らを育ててきたのだと。

自分が数ヶ月仕事を休むことで感じる不安は「他の人に仕事が取られて戻ってこなくなるのでは」ということ。
それは「誰でも変わりが務まる結果しか生み出せていないかもしれない」という弱さなんだと思う。

他の人には出来ない自分だけの「表現」や「結果」に誇りを持つことが大切なのだなと。もちろん、それを適正に評価してくれる相手も大切だ。どんな立場であれ、独りよがりの過大評価は最悪だけど、客観的に指摘してくれる相手は持つべきだろう。

早くから社会に加わっていかないと、自分に対する評価が適正か否か判断が遅れるものと感じている。「仕事が出来る人」の存在を知り、「自分の仕事のレベル」を知ること。他者を知らずして、自分の出来不出来はわかるはずもない。
学校や企業など、組織に加わる場であったり、そうした環境での働き方の際には、その場の空気などもあって、より社会的な視点を見失う怖さもあると思ってる。

間違った転職志願なんかも、こうした場で自分を見失うことによって、過大評価をした結果に多い。(そこそこ知られた会社での立場を社会での立場に置き換えちゃうと、裸の王様になっちゃう)

もちろん、組織に加わりつつ、社会との接点をしっかりと持つことでそれは回避できるものだけれども。偏った情報やコミュニティの危険性はここにあると思っている。フリーの立場であっても、閉じたコミュニティに依存すると同じことになる。その場合は最悪だ。

特に若い頃は適正に評価される事が難しい環境も、そこそこ日本には残ってると思う。若いとか経験が浅いってだけで舐められる時がある。(多くの場合、年齢だけで評価しているその人がクソなんだけど)
ただ、少しずつ感性やらセンスを適正に評価できる人たちも表立って増えているのも確かだ。

仕事を休むことで仕事を失うと感じる人間は、初期の頃に適正な評価が得られなかったのかもしれない。成功体験は数あれど、いつまでたっても不安が大きい。ただ、その不安があるからこそ生き延びれてきたという点もあると思う。

仕事より大切なもの。それはその人の人生。
どう生きるか、何を楽しみ、何を喜んで、何を目的として過ごすのか。
根底にあるのはそこ。

なぜか日本では「仕事」が一番大切みたいに扱われる上に、仕事に裏切られると全てを見失う人も居る。そんなつまらん人生は残念だ。

何かを強制されて生きている訳ではなく、楽しむ為に(それが仕事という事もある)生きているのだから。やりたいことをやれば良い。仕事したければする。したくなければしない。その選択がなぜかしにくいと感じてしまう。

「でも、お金稼がないと生きてけないし、やりたいことも出来ない」って意見は、逆。
やりたいことからお金を得る方法を考えればいい。
画が好きな人は画を描くことでお金を得る。画の描き方を教えることでお金を得る。画を評価することでお金を得る。色々ある。

「好きなことを仕事にすると、嫌なこともしなければならないから嫌いになるって聞くよ」って言われたこともあるけど、なんで「嫌なこと」をするのかと。
嫌なら断る。シンプルにそれだけのこと。

すると、最初に戻る。
「断ったら仕事来なくなるのでは?」と。

たぶん小さなことの積み重ねなのかもしれないね。
「嫌な仕事は断る」もしくは「適任者を探して提案する」くらいのことをしていくと、断っても仕事が来る事を知れる訳で、休暇をとっても仕事が来ることを知ることが出来る。

長期休暇を取ることを不安に感じることは不幸だと思う。(まさに僕なんだけど。)
それでもまぁ、嫌な仕事は断っている。それでも不安はあるのだよな。

不安は悩んでも解決はしない。多くの不安は「見えない、わからないこと」だから。結局悩んだところで答えなんか出ない。
いくつか経験することで、少し見えたり、ちょっぴり分かってきたりして、そうして不安は消えていく。

ということは、まだまだ経験が足りないのだなって思ったりする。
そんな40代か。思ったより未熟なもんだ。

2017年9月27日水曜日

「転職」を繰り返す人を現状からの逃避だと思っていた。

数年前までは「転職」を繰り返す人を現状からの逃避だと思っていた。「自分に合った職を」と、繰り返す人たちが周りに目立ってきたのは10年くらい前からかな。『終身雇用』みたいなのが崩れだした時。
それ見つつ「そんな数年働いたくらいで…。もう少し結果出してからで良いのでは?」とかが、その当時の僕の感想。
その頃、そんな目で見てしまっていたことを謝ります。古い価値観で物事見ていました。反省。

誰かのツイートかな?で見かけた記事で『外資系より残酷な日本企業』みたいなのがあって、「なるほど!」って思ったの。最近自分のFBで見かける違和感を説明してくれた気がした。
検索したらスッと出てきたのでリンク。

外資系より残酷な日本の大企業
http://artsandscience-kipling.blogspot.jp/2017/09/blog-post_16.html

ここのターゲットである40代がまさに僕ら。
仕事関係だけで繋がっていたSNSも、裾野が広がるにつれて仕事では出会わない様な昔の仲間達とも繋がるようになってきた。結果的に自分の知らない世界が、おもったよりも近くにあることを知らされる訳です。

実際に会わないまでも「こいつはもっと上に行くな」とか「なんとなく定年まで見えるな」みたいなのは、FBのエントリーやら、そのコメント欄で行われる同僚(と思われる)人たちとの文面から見え隠れしちゃう。
圧倒的に「社内と取引先だけ」でしか交流が見られない人は、ちょっと残念かも。SNSってそういう部分が顕著かもね。

いくら組織の中とはいえ、自分の外側に広がる世界を少しでも知ることは、結果的に自分の社会の中での客観的な自己評価に繋がるんじゃないかなって思う。
取引関係があるとするならば、やっぱり利害関係を踏まえた上での交流となるわけで、そこでの他者の扱いから見る自己評価は過大になりうる可能性が高い訳です。(太鼓持ちッ)

それで…、組織に属す上で、社会的な立場での適正評価っていつ受けられるのか?ってのの明確なタイミングは「転職」なんじゃないかな?って思った。
転職を意識した時、そして転職を試みるタイミングで、はじめて自分の評価が見える。時に残酷でありながら、自分の能力(才能)に気づく時でもあったりする訳です。

─ フリーランスって立場で働き続けてきた僕ですが、より優秀な人達は「フリーランス」と「組織に属すること」の良いとこ取りで「転職」という波乗りをしていることに気づいたりする。適度な社会的な保証も受けつつ、安定感も得つつ、ビックウェーブを乗りこなしながら、自分の才能を見つけて磨き、それを更に活かすという。

結局「逃避」と上辺だけの印象で見ていた転職組が、結果的に今の世の中での働き方に一番適していたっていう話。完全に余談ですが… ─

日本の古い企業の体質の中で、一番ずるいのは「飼い殺し」だよね。ある程度「守るもの」を手に入れさせた上で条件が悪くても抜け出せなくさせる。これってなんとなく『茶色い朝』の世界の凝縮版。組織の中で行われる『茶色い法律』と思考停止。(だからFBで会社の悪口書いちゃったりするわけ)

「“茶色の朝”を迎えたくなければ、思考停止をやめることです」 哲学者・高橋哲哉さん
http://kokocara.pal-system.co.jp/2017/06/12/brown-morning-tetsuya-takahashi/

行動することも無く、ただただ同様の立場で悪口を言い合いながらも相互監視しつつ、波風立てずに過ごす。そんな組織はまだまだ多いことをSNSを通しつつ知りました。
そんな組織が運営するのが地方のトップサービスみたいな地方社会。まぁ、企業自体は残念な評価だったりするけど、そこ利用するしか無かったりが地方の更なる残念(残酷)なところ。

うー。茶色いどころかドス黒いドロドロした空気を感じる。

話を戻しつつ。。。
「転職」という社会での自分の評価を知る(高くても、低くても)ことは、とても重要だなって思う今日このごろ。

2017年9月26日火曜日

フリーランスに向いてる人、組織への就職が向いてる人。

上手く説明できるかな?

「誰とでも仲良く」学校でよく聞かれる言葉。悪いことじゃないけど、嫌な奴は居るよね。基本合わない人は居てもおかしくない。自分が大丈夫でも相手がどう思うかはわからんし。

で、これ社会でも必要?ってことなんだけど、組織に属すなら必要だと思う。波風立てずというか、組織としては進む目標が同じわけで、そのために円滑に進める上で「誰とでも仲良く(支障が無い範囲で)」ってのが必要になるよね。

でも、フリーで働くカタチを取ると「無理に嫌な奴と仕事する必要ない」ってのが基本に来る。義務教育の呪いで、「誰とでも仲良くしなきゃなー」とか思うとドツボ。キツイのですよ。
「でも、仕事くれてるし」って言うのはダメ。気の合う人から貰う仕事の方が1000倍も1億倍も良いに決まっている。嫌な人の仕事は断って良いよ。
そうでなくても、タイミングによっては、断らなければならない仕事もあるわけで・・・涙

そう。↑ここが重要。

自分の時間の使い方を大切にすること

嫌な奴の仕事を取ることで、気の合う人との機会を失う事が残念なのです。気の合う人から重複しちゃう場合は、気持ち的にまだ穏やかだけど、嫌な奴の仕事が決まっちゃってて、、、となると精神的にも穏やかになれるはずはない。

フリーって「選べる」ってことなんだから、自分からキツイ条件の仕事をやっちゃいけないし、「これしかない」って自ら可能性を狭めて考えるのも良くない。
仕事が無いタイミングでは、ゆっくり休めば良い。遊びは経験となって、仕事にフィードバックされることは多々ある。

焦らない事が大切。
「でも家賃が…」とかあるよね。でも大体どうにかなるもんです。逆にどうにかならない人はフリー向きじゃない。
それで嫌な人との仕事取るくらいなら、どこかに就職して組織の中で人間関係の距離感保った方が、同じ負荷でも安定感もあるし、良いこと多いから。

フリーに向いてる人、就職が向いてる人ってこの部分が核かなって思うの。

生まれ変わったら何がしたい?

このタイトルで授業をしてみようと思う。
そもそも「生まれ変わったら」という言葉を言い訳に、好き勝手に意見が言いやすいのでは?という気持ち。

「じゃ、それを今やってみようよ」という切り替えで、さて学生はどう反応するか?

今は情報が多すぎて疲れちゃうよね

今の大学生はいろいろなストレスに囲まれていると思う。僕らの大学は「自由だ」と言われていたけれど、それでも「世の中の常識」みたいな物に付きまとわれていた。
明確な就職先を挙げられるわけでもないのに、なんとなく就職活動をしてみたり。エントリーシート書いてみたり。今思えば馬鹿だと思う。

自分の希望や野望に向かっての努力はすべき。とことんトライしてその場での全力を出し尽くすべきだ。でも、なんとなく周りに流されての判断だとするならば、振り回されている時間ほど無駄なものは無い。


やりたい事は無いの?って意地悪な質問だよね

「今やりたい事」その質問はある意味究極の質問であって、なかなか答えにくいのは想像できる。本音としては「やりたい事」は沢山ある。でも、口に出すことが恥ずかしいというか、怒られるのでは?というか、『くだらない事』とどこかで決めつけてしまって、自分の心の奥底に大切にしまいこんでしまいがち。
すると「やりたい事、無い気がする」って解答になっちゃうよね。

それが「生まれ変わったら」という言い訳を用意してあげると、大切にしまいこんだ細やかな希望や野望が這い出してくる。気がするんだよね。

でもそれって、本当は「今やりたい事なんじゃないのかな?」ってのが僕の気持ち。

輪廻転生はよく分からないけれど、今の僕には前世の記憶は無いのでw、やっぱり「生まれ変わったら」と言いつつも、やりたい事は今のウチにやっておいた方が良いのではないだろうか?


大学ってなんの為に行くのだろうか?

大学って今でもよく分からない場所だなって思う。義務教育では無いから、本来は自分の選択で全てが決まるべきなのだけど、なぜか強制される授業があったり。「単位」ってモノに振り回されたり。なんだかな。

大学に進学することで「卒業」って大切なひとつの目標ではあるのだけど、勉強は卒業してからもずっと続くから、その4年間頑張ったところで楽になるとか、あんまり無い気がするんだよね。逆にそこで安心しきっちゃう方が恐い。

会社に入ることが目的なら、それでも良いけど、入ったところで文句ばかりFBに流し込む様な人間にはなってほしくないよね。全ては自分の選択の結果。
望んだ結果が今のはずだから、そこをウダウダ言う輩は僕は苦手なんです。

脱線したね。

そう。なので、そんなカタチで学生の本音が引き出せたら面白いなって思うのですよ。

大学卒業が「大学卒」って就職に向けた肩書のためなら、その大学の在校生数千人と同じどんぶり勘定でしか評価されない場を望むってことになるの。わかってほしいな。
「自分を見て評価してほしい」って人間は、就活とか以前に募集されていないインターンやらバイトやらで潜り込んで、その職場で結果だしてるもんだよ。

2017年8月21日月曜日

「これってお金になるんじゃないか?」って発想こそ、その人を育てる

北海道時代、ヒッチハイクを求めてくる人が普通に居た。地元の人達も日常的に乗せたりしてた。そこで記憶に残ったやりとり。
「お金が無いから飯をおごってくれ」というヒッチハイカーに対して「お金が無いからって理由じゃおごれない。でも、もし僕を楽しませようと、たとえば漫才をしたり、マジック見せてくれるなら、その対価として支払うのは良い」って返したらしい。
なんか物凄く腑に落ちたやりとりだった。

「お金が無いからお金をくれ」って言うのって、物凄く無能感あるなって思う。でも何か一芸をして「その対価としてお金をくれ」ってのは、普段の仕事と同じじゃないか。そこに社会がギュッと凝縮されている気がした。

最近、国が力を入れているからか、「子どもの貧困」に対する記事や広告を目にする。そんな中でこのエピソードを思い出した。

例えば自然災害などで困っている人たちへの募金などであれば、その時の自分の気持ちとして何の見返りも求めず出すことは心地よいものだったりする。

しかし、もしお金を求める側だったとしたならば、誰かからお金を得ようとする時に「金ください」って言って、すんなりもらえるとは思えないし、万が一にもらえたとしても、金額的にも効率的にもよろしくない気がする。
だったら「僕はこんなことが出来るけれど、対価としてお金をもらえますか?」って事がシンプルであって、相手にとってみても嬉しい結果が手元に残るカタチとなる。

じゃぁ、一芸を持つべきか?と問われると、そうも言い切れないかなと。
もちろん「一芸(才能)」は分かりやすくプレゼンしやすい。ただ、これを読み間違えると「資格主義」な世界にまっしぐらな危険性もあるよね。

では、何が必要?と僕が考えるとするならば「発想力」だと思う。

アイディアは元手が掛からないし、無から生み出せるものだと思う。もちろんその発想の為に色々と経験や知識も必要だけれども、そういったものだけで無限に生み出せるものだと思う。

「これってお金になるんじゃないか?」って発想こそ、その人を育てるのでは?

その生まれた発想の為に必要な技術やスキルはその時から学べば良い。技術やスキル、ましてや資格を持っていても、発想が無ければただの肩書でしかない。

もし、現在の環境から何らかの理由で抜け出したい時、一番裏切らないのは「自分」であって、その時に力になるのはいつも「発想力」だと思う。

2017年8月19日土曜日

iMacのロジックボード交換

Macを初めて友人から買ったのが19歳とかだから、かれこれ20年以上Mac使ってる。何度か大きな変更で戸惑ったりもしたけれど、また最近Windowsを並行して使い始めて、あらためてMacの良さが分かった気がする。

理由としては、なんてこと無い習慣的なことだから「やっぱりWindows」って人と意見は大きく変わらない気もするけれど。

現在のマシンはiMac 27inc 2015Late(ところで去年買ったのにモデル的に2015になるのはあまり気持ちよくない気がしている)今回は使用中に突然画面が落ちる(スリープ状態になる)というもの。
買ってすぐに症状が出てしまったのだけど、立て続けに繋がる仕事から修理に出すのを躊躇していた。そんな感じで半年近くだましだまし使ってたけど、いよいよってなって、ようやくDAIV(mouse製)Windowsのノートを購入。(理由はiMacの正反対のモノを購入したかったから)修理に出した。

修理に出したのが17日昼。Appleに到着が18日。即日修理で出荷。19日のお昼に帰ってきた。このスピードだったら、仕事のこと考えずにもっと早く出しておけば良かった。
で、そのiMac君でこのブログ書いてる。

スリープになる原因は熱による自己防衛なのでは?って考えていたのだけど、人間が寒いくらいの環境でも症状が頻発したから、とりあえずこのまま様子見しましょう。

Macを修理センターへ出したのは、G4以来か。あの時はなぞの「キーボードがUSとして認識されてしまう」現象だったのだけど、どうやら追加していたSCSIボードが悪さしていた模様。何度も行ったり来たりしつつ、抜いたら治まった。

今から思い出すと、あの時は代替機としてiMac(初代かな?)を出してもらっていた。今はそれが無いから躊躇する。
「レンタルって手もあるよ」って意見もあったけど、修理に何日かかるか予測出来ない状態では、それも躊躇する。うん。基本的にケチです。

HDDやSSDはそのままなので、修理に出すために削除したデータを戻し中。
さて、この後にちょっと負荷のかかるレンダリングで修理後のチェックです。結果はいかに?

人気の投稿

Google+ Followers