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2017年12月30日土曜日

人生は、“creating yourself.”

大学を出て「働く」という状況に現実味を見いだせなかった僕は、1年間バイトした後に13万円くらい握りしめて北海道へ旅立った。
自分の居場所を探したり、存在の価値みたいなものを確かめたり、小さなことから挑戦を初めたり。そんな中から「自分に出来ること」を探して「自分が何者であるか」を日々問う感じだった気がする。意識した時間より、感覚でそんな生き方をしていた。

結局「自分探し」の様な行為の末に、自分は見つからなかった。
でも、多くの経験を持って東京へ帰ると、いろいろな仕事を得る事が出来るようになっていた。ずっと東京に居たら、今の自分は無かったのかもしれない。北海道へは感謝の気持ちしかない。本当に良い人々に囲まれた地だった。

常に興味のあることを探りながら、自分の好きな世界に触れていられる時間を増やそうとしている。毎回、いろんな方々からチャンスを貰えるのは、周りの環境への感謝しかない。それに応えるのは、お礼の言葉を並べるよりも、その時その時の最大限のカタチを示すこと。そこに返ってくる反応がその時の自分の等身大の姿なのかもしれない。

40歳を過ぎて自分を見失うことがあるけれど、毎回自分を見つけることなんて出来てはいない。不完全なのは、自分が至らないからではなく、完全へ向けた途中の姿なのだから仕方がない。大切なのは何が足りないのかを知り、そこに向けた一歩を出すことなのかもしれないね。

人生は自分は「何者」なのか?を探すのではなく、自分を作るもの。
ふと知人の誕生日のエントリーで出会った言葉。うーん。40代になって響いちゃったりしています。英語の方が直感的に響く気がする。

どんなクルマ乗って、どんな仕事して、何を食べて、どう生きるか?の選択は、自分の人生を作り上げる上での日々のコンテンツ。何をしようとも自由だけれども、そのひとつひとつの選択が自分自信の人生を創る。

「自分には何ができるだろうか?」と悩む事も多かったけれど、その時その時の経験がその場でのあやふやな答えに繋がっていたかもしれない。でも、そこで「これが出来る」と選択した上で、そこからの自分の人生が続いているんだね。

「自分なんて」と謙遜してしまう事もあるけれど、結局は「自分がやりたいこと」を続けることが大切で、その為に切磋琢磨したり、学んだりを繰り返している。
同じ繰り返しなら、自分が心地よいと思う方向へと進むべきもの。

クリエイティブで生きるならば、自分の人生という作品を創り上げよう。

この言葉に出会えただけでも、2017年は良い年だなって思った。それくらい心地良かった。

やりたい事に、とことん集中すればいい。そこから得られる物も多いだろう。
振り返ると、失う物も長い目で見れば少ない。本当に大切なモノは簡単に手から離れていかないようだし。

自分の人生を責任持って創ること。大切だね。

2017年12月21日木曜日

無駄な摩擦はつくらなくていい。

大学に出入りしているときに顔の知ってる学生に会うと、自分の関係ないところの研究について好奇心で聞いたりする。
色々な分野があるもんだなって関心することも多いけれど、結構重要なことをテーマにしている学生も居たりする。でも答えの出し方が勿体無いなってこともあったり。

僕自身の考え方も偏ってはいるわけで、点数つける権限も無いから、どちらかというと無視すれば良い部類のノイズだったりもするのだけれども、それを知ってても口出しちゃうのが僕。

色々な研究のススメ方や、研究のまとめ方とか「もっとこうした方が社会的に認知度が上がるんじゃない?」って話をすると、「いや、そうは思ったんですが、担当の先生が…」みたいな声がある。

担当の先生が点数つけるわけで、卒業する為の研究なら、そうなるよね。って思いつつ。うーんと考える。『本当は何の為の研究なんだろう?』と。
自分が興味を持ち、学生生活の多くの時間をかけて取り組む研究は、学校の卒業のためだけのものなのか。それ使って新しい研究に進んだり、ビジネス起こしたり、世界が幸せになったりするもんじゃないの?とか。

閉じた学校という世界の中だけで完結するためだけの研究って、人生で意味あるのかな?長いものに巻かれろみたいな、上司の意見には逆らえないんですよ。みたいなサラリーマンの声に似てる。
高い学費出して、そんなカタチで取った「大学卒」って看板にどんな意味があるのか疑問に感じちゃう。

「いや、僕はこの研究が世界の役に立つと思うので、先生の提案は無視します」って言って学校の卒業資格もらえなくても良いんじゃね?って思うのよ。
そんな一人の先生に認めてもらうよりも、社会へ発信し、必要な人達に届けるには?って考えながら、自分の研究に結果出す方法を考えるって大切。

でもね、現実問題がここで起きる。
「大学折角入ったんだから卒業したいよね。」と。学費が親負担だったりすると、更にこの比重が高くなる。うんうん。

だとしたら、大学の先生の意見に従うカタチで研究を進めて、波風立てずにまとめるっていうのがスマート。で、その上で外に向けたカタチで適したスタイルの結果を別にまとめて、発信すれば良い。
閉じた場で上手く行かない輩が、開けた場で上手く行くとは言えず。だとしたら、八方美人的に各場へ適した発信をするのが良いのですよ。

一番大切なのは、「大学時代の集大成」と言える研究を、閉じた場だけの評価で終わらせるのは勿体無い。社会に問いてこそ、その正しい評価があるんじゃないかな?って思うんだよね。厳しい意見もある、思いもしない展開もある。それが社会で毎日起きてるじゃん。

そういった接点、自ら生み出しても良いんだよね。
つまらないサラリーマンにならない様にね。会社の愚痴ばかり言って、会社の看板取ったら誰も相手にしない様な中身の無い中年はキツイよ。

2017年12月18日月曜日

「就職先が無い」この言葉で救われた世代もあるよ。

最近は大学生が売り手市場というけれど、事実として内定は取りやすくなってる様だ。ただ中を覗いてみると、内容としては色々な課題もある。

大学側が学生に進める就職情報は主にマイナビ的な情報を集約した場からの求人。本来はそれぞれ学生にあった職場の提案があるべきが理想だけれども、現実には厳しいと思う。学生も社会の職業も多様化しすぎているので、実際にそこを追いきれる就職担当者ってのも難しいんじゃないかな。

就職課は「就職を望む学生が相談しに行く場」であって、強制的に就職を取らせる課では無いはず。就職率の高さが学校の人気度に反映されるとあって、就職課に力を入れる学校は多い。

学生当人がそれぞれ「自分は何に興味があって、何が提供できるのだろうか」と自問自答する時間があれば良いのだけれど、それだけの経験を実感する時間が無い。
「自分が向いていること。自分の得意なこと。」って、多くの他者との関わりの中で見えるものだから、同じ研究室にいる人達の中では社会の中での自分の立ち位置なんて見ることは出来ない。むしろ社会の中で平均以上の才能や技術を持っていたとしても、成績の順位による劣等感さえ感じることもある。
それによって「嫌い」になる学生もいるんじゃないかな。

それって結局は本人の怠慢でしかないのだけれども。義務教育からの高校生活や大学受験、専門的な教育を日々浴びながら、あっという間に「就職しろ」と突きつけられる時に冷静になれない人も多い気がしている。横で見つつ。

僕ら76年生まれの世代は就職氷河期と言われていたけれど、結局そこで強制的なブレーキを掛けられたことで、冷静に自分と向き合う時間が作れたのかもしれない。
「自分は今何やってるんだろう」と落ち込んだ時も多いけれど、環境も文化も異なる人達が隣り合う「社会」の中で、自分に出来ることと向き合い、提供しながら、それによって喜んでくれる人が居ることを知って、一歩一歩「やりたい事」を見つけていった気がする。

今の大学生は求人が来ている所へ、好き嫌い選ばずであれば内定は取れると思う。あと数年はそんな感じだと思う。(2020以降は社会的に経済面での変化があっても、求人については判断しにくい部分もあるよね。多くの人が辞めるタイミングだし。)
その状況が、右も左も分からぬままに「社会と言う名の閉じられた組織」に組み込まれ、鎖国状態になれば自分の価値も判断しにくい社内評価に右往左往となる。

40になって周りを見た時に、この鎖国状態の中で会社名を背負った名刺に持ち上げられていることに気づかず、偉ぶってる姿にカナシミを見ることもあるよね。
そこは反面教師に。

「就職先が無い」この言葉で救われた状況もあったのだと今は気づく。下手に自分の望まぬ場に迷い込んでしまっていたら、色々と違う景色を見ていたことだろう。

どちらが良いのかは誰にもわからないけれども。

中央区まるごとミュージアムの試みと混乱と未来とか。

「中央区まるごとミュージアム」ってイベントが東京の中央区で毎年一回秋に開催されている。イベントと言っても、多発している小さな個人レベルでの文化系のイベントを中央区が後押しするカタチで広報などをバックアップしてくれるというモノ(と理解している)。

当日は中央区での観光船やバスなどを無料運営。ポスターや開催場所の地図を盛り込んだパンフレットを作成するなど、個人レベルでイベントを開催していた人達にとっては、とても強力なサポートとなってる。

ここに参加する費用などは一切かからないけれど、金銭でのサポートも一切ない。ある意味分かりやすい立ち位置での関係性でもある。

更に、客寄せ企画として「スタンプラリー」を運営。様々な中央区の企業やお店から商品提供を募り、スタンプや用紙などの用意までは中央区がしている。これによって来場者が増えているのも事実。しかし、スタンプラリー目当ての客のクオリティは低いのが現実。これは致し方ないかな。



行政との変わった繋がりって部分もあり、数年参加させて頂いてるんだけど、回数が増えるに従って、そもそものスタートが霞む動きも今年見えた。

例えば「パンフレットを作るのであれば、ここは改善すべき」として、参加者からの提案を受けながら、だいぶ分かりやすいモノが出来上がってきたのだけど、最近では自由な要望ばかり出てきていて、参加事業者側の都合での意見が目立つ。
それをホイホイと受けちゃうから、事務局側は混乱している気がする。「それはあなたの都合であって、目的とズレがある」みたいな意見で突っぱねるのもいいけど、なぜか低姿勢な対応が気になるのです。

本来は対等であっていい。冷静に考えれば一番お金のかかる「印刷物」と「交通機関」を無料提供してくれるのだから、ある程度「必要、不必要」の判断はすべきだと思う。

また、広報をしてくれると書いたのだけど、コレがめっぽう弱い。ウェブメディアへの掲載が1件のみ。行政が絡む内容としてはとても弱い気がする。実際Twitterなどの対応も活用できておらず、これだったら無くて良いと思う。
このあたりは以前は電通テックが対応してたんだけど、今年はどこだったんだろう?ここは金銭が絡む発注があると思うので、この辺りの発注条件など見せた上で、事務局側でもう少し精査してもいいのかなって思う。冷静に見て酷いw

あと、スタンプラリー。
これ設置すると本当に来場数が増えるのだけど、スタンプだけ押して展示見ない人が多い。「とりあえず集めて豪華景品もらうぞ」ってのが見え見えで、ある意味清々しいのだけど、仕方ないんじゃないかなーって思う部分もある。



パンフレットの作成も、スケジュールがキツイ。なんでそんなに早く情報集めたいのか分からないけど、個人レベルの企画なんてギリギリまで変化があるモノ多いんじゃないかな。進行がほぼ大手企業や行政のスケジュール。
時事ネタに反応したい人達の情報が疎かになりがちなのは、行政のやり方の押し付け感もあるかもしれない。

事実、今回は僕の周りの会場で急遽仕事の関係でNGとなった場所があった。本来は逆もあるんだよね。ギリギリになって、面白い企画が立ち上がって「だったら巻き込もうよ。会場を地図に加えるだけだし」ってスタイルであってほしいなって思う。

「まるごとミュージアム」の試みは面白いし、資本力の弱い場にとっては、心強い仕組みであるはずなのに、そういった場所が参加しにくいシステムになりつつある。
これは外受けの事務局の怠慢なのか、行政担当者の怠慢なのか分からない。

そもそもイベント慣れしてない人達が惰性でやってる感を見ると、現場の僕らはちょっと悲しい気持ちになる時があるんだよね。

「お金かからないなら文句言うな」は正論。
でも、「せっかくやるなら効果ある方法で運営しようよ。」ってのが本音かな。



「まるごとミュージアム」も実績が出来つつあり、オリンピック開催で「文化事業」としての後押しもあって、ある程度の期待値が行政側にもあるからこそ、現場担当者の負担も大きくなっている気はするんだけれども。
イマイチ立ち位置がぶれつつあって、参加事業者からも、上からも要望ばかりで仕事が増える中間位置にいる担当者は、そろそろ爆発するんじゃないかな?

既にキャパ超えしていて、当日もその後の報告会でも、個人的にその混乱を見た気がする。たぶん、現在の中央区側の人員はイベントなれしてないので、自分のやり方で動かそうとしちゃってるんだよね。

金で解決しようとして、多くのスタッフを当日使いつつも、その制御で仕事増えてたりする負のスパイラル。

もうちょっと活かそうよ。無理なくやってくれた方が、参加事業者も気持ちが楽ですよ。

ましてや、オリンピック後は文化事業への予算も大幅に削られるだろうから(景気の動向によっては行政の収入も減るだろうし)、あまり金に頼った運営すると後々キツイかもね。

2017年12月14日木曜日

時給400円で雇う会社が悪いのではなく、生産者が見えないまま、商品を購入する消費者が悪いのかもしれない。

メジャーなブランドの服の製造についてSNSで荒れている。「もうあのブランドは買わない」そんな声もあがるけれど、しばらくすると次の話題に埋もれていく。
良いことなのか、悪いことなのか、それこそ「人の関心」そのものだったりするんだよね。

仕事で炎上案件に関わったこともあるけれど、専門家曰く様々な手法はあれど「時が経つ」が最善策だったりするのも見てきた。一般的に道徳に反した行動・活動は良いとは言えないが、多くの人達の興味から外れて埋もれていった先には、知られていないことと同じ。
例えそれが商売だったとしたら、最悪看板を変えるだけでSNSには知られていないことと同じになる。時として恐いことでもあり、時として悲しいことでもある。

人件費時給400円で1万数千円の服を作っていたと。材料費や輸送、保管などのコストがどれだけあるか分からないけれども、消費者はその価値があると思って購入している。
ブランドはその値段で売れるコストで生産している訳で、そもそもの仕入れ値は分からない。
ここで誰が悪いのかわからないけれども、生産工場へ「この値段で、このクオリティで」という発注が通り、そのクオリティを維持したまま納品が出来ているのは分かる。

数千円もかからず出来上がる製品を、どの段階で誰が多くの利益を取っているのか分からない。もちろん、服は全バリエーション売れるとは限らないから、ロスも多いと聞く。むしろそのカタチが大量生産の課題であって、結果的にブランドとしても全体のラインを総括すれば、ギリギリの売上かもしれない。
大量生産の闇はここに見える。そしてそのシワ寄せが誰かに行っている。

クオリティの高い製品を安く作れるとしたならば、結果として馬鹿みたいに安く売る必要も無い。こうしたシワ寄せリスクに対する判断として「高いものを買えば良い」そういう判断でもなさそうだ。

多くの分野で多様な需要が生まれ、それに叶う供給も進みつつある。もう国民服の様に誰もが同じ服を着る時代ではない。むしろ自分が欲しいと思う細かな要求に対応できるほどの供給先を見つけることが出来る。
結果として個人ブランドの様なスタイルで細分化していくのだろう。大型大量生産の時代は今の若年層が社会の大部分を占める流れで廃れていくのだと思う。

時給400円で雇う会社が悪いのではなく、生産者が見えないまま、商品を購入する消費者が悪いのかもしれない。

特定のブランドの不買を唱えるのでは、また同じことを繰り返すだけだろう。
自分が手にするものと、もっとしっかりと向き合う必要がある。そんなことを考える炎上案件な気がする。

2017年12月1日金曜日

正解なんて無いんだよ

何か新しいこと始めようとしたりすると、既にやっている人に色々聞きたくなる。結果的に「効率の良さ」を無意識に狙っているのだけど、結局そこで正解にありつけることも無い。

というのも、そのアドバイスくれる人が意地悪なのではなくて、その人が最適と思っているアレコレが、誰にしも最適では無いってこと。

道具の整理の仕方や使う種類、揃える周辺グッツなどなどから、動き方や体制、指の動かし方ひとつまで、その人にあったカタチやスタイルがある。

もしくは、既に全てが効率化されたと思っているジャンルであっても、まだまだ未達のことがあったりで、何の疑いも無く飛び込んだ人が新しい手法を編み出したりする。そしてそれが新しいスタンダードに…なんて話はメジャージャンルにこそ多かったりする。

結果として、新しいことへの一歩としては、あまり多くのアドバイスを受けない方が良いこともあるなって。他人の流儀を間接的に押し付けられることで、面白さを見出しにくくなるってこともある。

もちろん間違った道具のあ使い方やマナーなど、色々気づいた瞬間に恥ずかしくなる体験もあると思うけど、それはそれ。それを通して学ぶものもあるよね。
笑い話にできれば楽しい思い出にもなる。

新しいこと初めて「わからない」「わからない」と無闇矢鱈に走り回るのは効率的に悪いのは分かるけど、一度やった失敗は二度としない。
経験が増えるほど、人は臆病になる原因でもあるのだけど、ある程度動き回ることで、発見が与えてくれる「衝撃」って、結構気持ちいいものだと思うんだよね。

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