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20160725

旭川で聞いたノミの話と、最近出会った衝撃的な10代の話。

監視されている訳ではないけれど、社会のルールという言葉で縛られているのは日本人特有の民族性なのかな?

「立派な人間であるべき。」よく言われた気がするのだけど、これは正しいかは分からない。ただ「他人に迷惑を掛けてはいけない」それは正しいと思う。自分が嫌だと思うことを他人にすべきではない。

今は分からないけれど、小学校の「道徳」やテレビでもマンガでも「正しくあれ」みたいなそんな言葉を繰り返し受けていた気がする。


いつも定期的に思い出す話があって、それは旭川で聞いたこんな話。

ノミは自分の大きさの百倍とも言われるけれど、シャーレに閉じ込めるとどうなるか分かるかい?しばらくはコツン、コツンと天井に頭をぶつけるんだけれども、そのうち音がしなくなる。天井に当たらない高さを覚えて、その内側だけで跳ねる様になるんだよ。
そして、話はここから。そのシャーレの蓋を取るとどうなるか分かる?もうシャーレの内側の高さまでしか飛べないんだよ、飛び方が分からなくなっているんだ。

人間も一緒かもしれないよって思う。義務教育がどの程度必要なのか分からないけれど、学校以外で学ぶことの重要性を社会人は実感しているんじゃないかな?

多くの子どもたちは、学校の先生を選べない。正しくあれと掛けられた言葉が、もしかしたらシャーレの蓋になっているかもしれない。なんとなく子供の頃から洗脳を受けた形で、飛べないノミになっているんじゃないかな?

反抗をしても、結局はその蓋の中に放たれたジャンプ力しか無いんだよ。

何が正しいか?
「他人へ迷惑を掛けるな」は正しい言葉と僕は思っている。その上で「自分の気持ちに正直に生きること」が一番大切な言葉だと思う。正しいと思っている。

他人の期待に沿ったところで、誰もほめてはくれないし、自分の将来への責任をすべて持つ訳ではないんだよ。
そして、多くの場合は声をかけた側が先に居なくなって、誰も居ない自分だけが生き残るんだ。そうなった時、誰の為にその期待を守り続けるんだろうか?

それが正しい人生という人もいるだろう。ただ、他人の脚を引っ張っては欲しくない。

世の中いろんな人がいる。色んな活動があって、行動があって、生き方がある。直接的な迷惑を掛けられていないのであれば、ネットやテレビ、雑誌でピックアップすべきではないし、それを見て腹立てるべきでもない。



とある企業のインターンの顔ぶれを聞いた。想像を超えていた。
大学へは行かず高校を中退して、自らプログラマーとしてコンペを渡り歩いている人物だったり、他国で独自のイベントを営業から運営まで回してしまう大学生など。

たぶん自分を信じて突き進む勇気と強さしかない人たちだと思う。誰の期待もない、あるとすれば自分の期待と好奇心。自分を信じる力がそこまで動かしているのだと思う。


学校が悪いとは言わない。家庭の教育が良いか悪いかもわからない。だけど、常に自分の気持ちに正直になりながら、突き進む生き方が正しいのだと僕は信じている。

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