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20100727

過去の夢との対話

4年目の大学生活を迎えた時、
他の研究室では、就職先を決定した友人がポチポチ出ていた。
内定というやつですね。それでも遅い頃なのだろうか?
就職という言葉が、当時の私には、
あまりにも現実的に聞こえては来なかった。
惰性で1社面接をして、その非現実感が強くなった。
そこで考えた。
なぜ、今私はここに居るのか?と。
高校時代、子どもの頃から車好きだった私は、
エンジンなどの開発に携わる仕事をしたいと思っていた。
訳も分からず、レース関係のファクトリーへ
バイトを無理矢理申し込んだりもした。
そして、単純な自動車の知識も足りない事を思い知らされた。
でも、そのファクトリーの方々が優しく接してくれたことは、今でも忘れない。
優しくなだめながら、MR2(SW20)で、最寄り駅まで送り迎えしてくれた。
車がより好きになった。
そして、工業系、電気系の大学を目指す。
夢中で勉強するも、英語がまったく伸びず。
理数も教科として好きだったが、
有名塾で開催された模擬試験では最悪の結果だった。
いろいろ悪あがきもするが、全く状況は良くならず。
簡単に心が折れて、諦めることにした。
というのも、通っていた高校は中高一貫校であって、
その生徒のほぼ全員が、附属の明治大学への推薦を貰える様な学校。
目的の学科は難しいが、それでも選ばなければ明大生の看板は背負える。
そんな事もあって、簡単に諦めてしまったのだと思う。
二部ながら文学部か何かの推薦の話があった。
たぶん、そこへ通うのだろうと半分思っていた。
悪い気分では無い。名の知れた大学なのだから。
そこで見たのがカーグラフィックTV。当時は土曜の夜だったかな?
ピニンファリーナの特集。イラストがクレイモデルになって、その後生産ラインに流れてくる車が映ると、最後一台のフェラーリが走り出す。
これだと思った。
それで美大を目指して武蔵美に入った。そして4年生になったということだった。
ならばとピニンファリーナの住所を探る。
カーグラで見たのだからと、カーグラの編集部へ手紙を送った。2週くらいしたころかな?返信があった。ピニンファリーナの住所と共に。
早速作品をまとめてピニンファリーナへ送った。
帰ってきた手紙を見ると、相手してくれたのは奥山清行さんだった。
「残念ながら君を今雇うことは出来ない。でもいずれ必要になったら声をかけよう。その時に分かるように有名になっておけ」と。ざっくりそんな英文。
粋だなって思いつつも、自分の道を探ろうともがき出した。ようやくスイッチが入った感覚。
その手紙をたまに読む。
過去の自分と対話しつつ、過去に恥じぬよう今のもがき方をしたいと思う。

旅の途中

放浪の旅に出る。自分探しの旅に出る。
そんな言葉は良く聞くが、実際にどれだけの人が旅に出ているのだろうか。
いや、旅に出た人は出たままなのかもしれない。
私は旅に出た。
色々と迷う事があると、突然どこかに移動したくなる。
どこかに行きたいという気持ちよりも、この場にいたくない。
そんな気持ちの方が強い。
1度目は東北へ。20歳の誕生日を迎える際に、
突然の移動欲求があり、毛布を車に積み込んで北へ向った。
軍資金は当時のバイト先へ頼み込んで前借り。
更には1週間の休暇を貰う。
そう考えると突発的とはいえ、計画的なのかもしれない。
実家に住んで居たので、姉に一言「東北へ行く」と言葉少なに伝え、
逃げる様に車を走らせたのを覚えている。
当時何から逃げたかったのかは分からない、
どんな状況だったかも分からない。
単純に、誰も知らない人達に囲まれたかったのかもしれない。
夕方出て、とりあえず茨城付近へ。道の駅などで車中泊。
結構寒かった事だけ覚えている。
早朝、深夜関係無く、走りたいだけ走った。
身体が冷えるので、毎日温泉を巡った。
村営や町営を狙って行くと、200円くらいで入れるから。
おかげで帰る頃には、お肌はすべすべだった。
車はファミリアのオープンカー。20万くらいで購入した車だった。
気ままに幌を開け、なるべく山道や高原を走り抜けて、
ふと我に返ったのは、遠野に付いた時だった。
ご当地ビールが話題になり始めた頃。
遠野の駅近くのバーで、一人ご当地ビールで祝杯。
この時ばかりは、民宿へ宿泊。
そのあとは、宮沢賢治の家を巡り、小岩井農場へ向った後に、
東京へ戻る事にした。
何日かかったかは覚えて居ない。
ただ、これが私の放浪のスタートだったと思う。
行く前と違うのは肌のすべすべ感と、ほんのりと日焼けした肌くらい。
気持ちも何も、まったく変わる事は無かった。
なんかモヤモヤする感覚だけは覚えている。
今も消えていないのかもしれない。

2015/07/18:追記
今なぜ旅に出たいのか原因を指摘された気がした。

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