Translate

このブログを検索

2015年8月24日月曜日

プレゼン費用は誰が負担する?

自動車ディーラーで修理見積もりを行うと、見積書作成費が請求される。高級車では以前からあったけれど、最近国産車ディーラーでも加算されたり。
見積もり作成の際に、現状のコンディション確認や修理箇所のピックアップなど作業が発生するのだから、不当な請求とは思わない。でも消費者目線としてみると、どうせ修理依頼をすることになるのだから、サービスに含めてもらえないだろうか?と思ってしまう。見積もりは無料だと嬉しい。
広告の現場では「これで行きましょう」と事前にプレゼンがある。「広告したい」と思う企業が、代理店や制作会社複数に競合させることもある。より良い結果を望むのも、幅広いアイディアが欲しいのも理解出来るから、ここで複数の人たちからアイディアを求めるのもわかる。
広告でなくても、同業へ相見積もりを取ったり取られたりは、誰もが経験あると思う。仕事を依頼する側は金額が高額になるほど慎重になる。
広告で厄介なのは、毎回新しいアイディアを提案しなければならないこと。これによって新しい技術の調査や、専門家を巻き込んでの検証などが必要となる。ビジュアル方面でも、サウンド関連でも、アイディアを伝えるためには、それなりの資料やサンプルが必要となってくる。
この資料づくり。先に挙げた形で進められるのだけれども、提案側としてはコストを掛けたくないのも事実。とはいえ、ケチった挙句にしょぼい資料となってしまうのは避けたい。競合があるなら、より優れた提案をしたい。
競合が3社居れば他の2社は落ちることとなる。最近この時のプレゼン費用はクライアントから出されることはほぼ無い。参加した側の泣き寝入りとなる。専門家へ事前オファーしていれば、その費用負担も含むこととなる。
実は10年位前まではプレゼン費用の出るクライアント直のオファーも結構あった。今でも無いことはないけれども。
「最近では無いことが一般的になっている。」とは現場からの声。
せめて依頼が決定している上で「複数のアイディアが見たい。」というのであれば、プレゼン費用を経費として見ることも出来るし、制作費用への入れ込むことも可能。だが、競合プレとなるとそうは行かない。
競合プレゼン費用の負担や、コンペの参加の請求を0とするのが悪習と見るのであれば、それは改善すべき事柄かもしれない。
『見積もりや提案が無料だと嬉しい。』冒頭で書いた通り、この気持ちは消費者目線で見れば同調出来る。でも、実際に請求される現実もある。これは数や規模の問題だけでなく、営業側の手腕か?依頼者側の手腕か?
『人が動けば費用が発生する。』その単純な請求を行えるのか否かも、受ける側としての大切な使命かもしれない。

2015年8月21日金曜日

プレゼン資料に見る、制作の現場からの危険な流れに気づいた瞬間

思った以上に日常化している状況として。ポスターや広告映像、時にプロダクトも同様の流れがある。そんなメモ。
クライアントへのプレゼンテーション。例えば「こうしたポスターを作りましょう」と持っていく資料がある。これはクライアント向けの説明として使用されるので、分かりやすさが大切。最終イメージに近いビジュアルを作り、提案を行う。
なぜそんな事をするのか?
クライアントに対しては、「こんなイメージで行こうと思います」と言葉やラフスケッチで伝えても「分からないよ」とされてしまう。
そこで、ほぼ完成系に近いプレゼン資料を作ることで「これなら良いね!」という了承をもらえる。つまり、そこでGO!が掛かる。
この時の仮イメージとしてweb上にある画像や写真を引用し、近いイメージを作って出している事がある。

その資料に使う画像。閉じた場で使う資料とは言え、Webの画像をコピペして使って良いものか?と疑問を持つのも、そうした世界に触れたはじめだけ。気がつけば、最もイメージに近いビジュアルを探す作業がルーティン化している現場がある。
これが怖い。
何が怖いかといえば、web上の画像の勝手な引用についてではなく、既存のビジュアルを引用することが「イメージに近い=そこからイメージが広がらない」危機感がある。それ説明するなら下記の様な状況となる。
無事にクライアントへのプレゼンを終え、担当者からOKをもらう。そこから製作が始まることとなる。
プレゼンを見事に通過したビジュアルだけれども、今度はそのイメージから大きく外れてしまうと、「ちょっとプレゼンの時と印象が違うな」という反応が来てしまう。
クライアントの想像力は、完成系に近いイメージを見せられることによって停止してしまっているし、そもそも「その仮画像」を気に入っているのだから、それと異なる物が出て来れば「違うよね」となるのは当たり前。
すると何が起きるのか、新規の撮影やイラスト制作を行っても、元のイメージに近づいてしまう。結果的に「トレース疑惑」が出てしまうのも自然な事なのでは無いか?と思う部分がある。こうした可能性はゼロでは無い。

では、そういった危険をどう回避するか。
はじめからプレゼン資料で使用するビジュアルを、プレゼン専用に写真撮影したり、プレゼン専用にイラストを起こす。これなら危険は回避できる。完全なイメージ通りのオリジナルなのだから。
そうした事を必ず行っている制作会社さんもあります。小さなデザイン事務所なども、そうした丁寧な仕事をされている印象を見て感じています。
なのになぜ、
web画像や既存の製品をプレゼンに使用する人がいるのか。
これは時間が無かったり、数をこなす必要のある現場では、忙しいからとWeb上の画像を、ほぼそのまま素材として使用してしまう資料作りをする現場がある。これはプロジェクトに参加していても恐くなる。(基本的にそうした進行をする会社さんとは長続きしない。働き方のリズムが異なりすぎる。)

今回のサントリーのバックのトレース問題。この原因はこの流れなのではないだろうか?と推測しています。
作業を行っているデザイナーさんが、プレゼンの資料への間に合わせとしてコピペして制作した『仮イメージ』を使用。その後、製品化する時にも大きく変更する事ができず、これが起きた。
結局は現場の士気が下がっている結果だと思う。そもそもコピペしようとするデザイナーなんて居ない。デザイナーを目指した人間が、それを良しとするなど自身のプライドが許さないはず。
忙しすぎたり、休みが取れなかったり、対価も思わしく無い。そんな環境下なら、手を抜こうとしなくても堕落し落ちぶれる可能性はあるかもしれない。ルーティン化していた状況もあったのかもしれない。
結局はコピペするしかなかったデザイナー達は不幸なのだ。

彼らの仕事場が幸せな環境にあったとは考え難い。
今回の件は本人達が一番恥じているだろうし、復活できるメンタルがあれば良いのだけれども。
それも踏まえて監督であるリーダーの責任だと思う。コピペ云々より、事故が起きてしまった環境を作ったことを恥じてほしい。コピペをしたデザイナーが悪いのではない、それを生み出す環境を作ったリーダーが悪いのです。そう考えることが責任者としての責任。
もう一度仕事の取り方も見直して、体制作りと組織作りから再出発をしてほしい。このまま終えるのではなく再起を望みます。

2015年8月20日木曜日

壮大な炎上によって目が向けられた現実。2020東京オリンピック。

東京オリンピックに関しては、毎日の様にネットで答え合わせをするクレームが並ぶ。それぞれ色々な意見を持つのは良いことと思う。他の人の考え方を偏らせる情報の取り扱いをするメディアは困りものだけれども。
2020年のオリンピックに対して、多くの有名人もコメントをして、それを更にピックアップするご近所の井戸端会議レベルのサイトもある。それをバイラルメディアがコピペしてアプリで配信。そしてそれをテレビがピックアップ。
これによって、情報を得る為に偏ったツールに頼っていても、比較的平等に情報が行き渡っているとは思う。
そうして、怒りにまかせつつも、いろんな立場の人たちが自分の意見を持つ様になってきた。これ実感するよね。賛成派、反対派、なんらかの意見持ち始めてるのではないかな?
でもね、比較的「あまり興味ないな」「なんで東京でやるの」なんて意見も多く静かだった「東京オリンピック」について、これだけ個人が意見を持つ事で「自分たちのオリンピック」という意識が芽生えてきていることに気づいている。
これ集団を団結させるには大切なんだよね。色々な意見があるとしても、まず「興味を持たせる」ということ。興味さえ持ってもらえれば、あとは上手くアテンドできる。
最後良ければ全て良し。というか、昔の事すぐに忘れる民族性に頼るならば、成功する条件としての「国民の興味」は得られたわけだし、ここから少しでも上り調子なら(これ以上下がらないと願うけれども)、印象も良くなるだけでしょう。
「自分たちの東京オリンピック」という意識があれば、きっと成功できるよ。自ら動けるからね。それぞれの立場で、それぞれの役割が見れると思う。

2015年8月19日水曜日

旅の途中で見る旅立ちへの夢。人生を旅と認識すると、見える景色が変わるのだろうか。

ラジオで川田十夢さんが、「一人旅はいつでもできるんですよ」みたいな話してて、ちょっとドキッとした。
なんとなく現状のモヤモヤ感から抜け出そうと、もがく上でどこかへ物理的な移動をしたい(どこか物理的に逃げたい)と考えていたからこそ、ちょっと気になる話題。
SNSの影響でひとりでも一人旅にならなかったり、逆に大勢の中でも鮮明に記憶が残る経験は一人旅で得るものに似てる。的な。(ちょっと違うかもだけど。w)
だけど妙に何かが僕を刺激した。言葉が刺さるという感じでは無く、見まいとしていたモノに気づかせてくれた感じ。
どこかへ旅をしたいと思う気持ちは、どこから来ていて、どこへ向けられているのか?
物理的な移動は発想を増加させると言うけれど、それは結果論であることが多くて、実際に旅に出させた気持ちは逃避に近い欲求が本音なのでは?と思う。

劣化する記憶を都合よく上書きすること

一人旅の記憶は美しく残るけれども、それを得る目的で旅に向かった訳ではない。予定外・想定外の刺激を、衝撃の形のひとつとして美しくさせるのではないだろうか?
その記憶は本当に美しいものだったのだろうか。記憶のシャープさが弱くなり始めると同時に勝手な美談へと修正(もしくは創造)されている気がする。
実際に「思い出の地の景色」ってそんなガッカリ感を受けることが多い。「前に見たあの景色、もう一度見たい」と追いかけた結果、思ったより普通の景色だったり、ちょっと小さな景色だったり。思っていたのとは異なる事が多い。「美しい記憶」は美しいままに記憶で止めておくのも良いことかもしれない。いたずらに現実を押し付ける様な無粋なことをする必要は無い。破壊するのはいつも自分なのだが。
この法則は「残念な同窓会での再会現象」とでも例えたい。
再会さえしなければ、美しいあの時の姿を更に好みの形へと修正された記憶のままに人生を続けることができた。
同窓会へ足を運んだばかりに、無残な現実が高解像度の三面記事的な情報へと上書きされていく。そうなると、上書き前の記憶なんて二度と読み込みできない。
過去の美しい記憶なんてそんなものかもしれない。

人は日々変わり続ける。日々を船旅に例えた糸井さんのコラム

その糸井重里さんのコラムと重ねれば、人は常に旅の途中なのかもしれない。
それも一人旅。
恋人が居たり、家族が増えたとしてもずっと続けている一人旅。人生は常にその途中であって、旅を終える=永眠。ということか。
旅に出たいという欲求は、旅の途中で見る夢として少し滑稽ではないか?旅先の景色として、今立っている場所から何が見えるのか?それを認識することが大切なのだと思った。

2015年8月13日木曜日

誰にも遠慮無く、自分の人生を選び自分を作ること。

仕事も生き方も自由な時代なのに、何かしらに“縛られている”状況にあるのが、たぶん僕ら世代なのでは?それも“自ら縛られる”ことを選び、そこに安心を得ようとしている。少なくともそこに頼りたいと思う自分がある。
今の20代前後は、それなりの生き方の攻略法を駆使している。それもその世代としての生き抜く知恵として、自分の嫌なことは初めから極力関わらない様にしている。
彼らは責任感が強く“真っ当”な存在で、無茶苦茶な問題に対しても正面から向き合うことを選ぶ。“馬鹿なこと”とハナから相手にしない事は無い。
最近聞く「ブラックバイト」も、僕らが20代の頃なら「そんなの行かなければ良い」となるだけ。“従わない”という選択をするだけ。
でも、今の彼らは面倒な物事に近づかない様に、時給よりも環境を慎重に選ぶ。そして、もし誤ってブラックに当たってしまったとしても、正当に辞める手続きの上でそこを離れる。
そうやって自分たちを守る防衛方法は、あまりにも理詰め過ぎる様にも見えるけれど、それは彼らの生き方であり、曖昧な部分を残さない防御方法でもある。

社会に出たら思っていた社会と異なっていた

そう、本題。
40を手前にした自分は、子供時代に「社会人=会社に雇われる」という考えが大きかったと思う。夢を語る中で「社長になる!」なんて友達もいたけれど、それは「総理大臣になる!」という言葉と同等だった。「社長=お金持ち」程度のこと。本当にビジネスを起こそうと考える子供は、周りにどれだけ居たのだろうか。
社会に出るとITだなんだと騒ぎ立てていた。一気にパソコンが普及し、インターネットが一般化されていた。急速な社会のIT化は 、ひとつの技術やセンスだけを短期に求め、様々な企業を横断する個人の需要も高まった。フリーランスという生き方がメジャー化したのは、この頃なのでは?と思う。
そこから法人化していく選択もあれば、個人のままに続けていく選択肢もある。

暗く見えた時代の中でのサバイバル

その頃から「終身雇用」という言葉に疑問符が明確になり始め、大企業の倒産などもニュースで騒ぐ。なんとなく暗い雰囲気はあったけれど、実際にはどうだったのだろう?
そんな世の中の変化に柔軟に対応できるか?が、僕ら世代に突きつけられている課題の様にも思ったけれど、上手く振る舞っている様に見えて、実際に対応できている人も少なく見えた。
そういった意味では、先の「今の20代」の生き様は、このスタイルに対応できていると言えるのかもしれない。

仕事は選ぶモノで、その選択で幸せになるモノ

仕事をするということは、生活に必要なお金を受けることであり、それは生きる上で必要なこと。無理に課せられた罰則でも無ければ、無理やり押し付けられるモノでもない。
お金は必要以上に必要のないはずだけれども、数字を増やすことが楽しくなる人もいる。それは趣味といえば趣味。そこは個人の自由。自らの幸せにこそ、重きを置くべき。
なのに、その得たお金の量を見つめながら、周りを気にしてしまう気持ちは拭えない。
平均年収などの数字は年中メディアに取り上げられる。テレビでもネットでも、人の興味がそこにある様に、覗けば簡単に自分もそこに陥る。なんの価値もない数字に強迫観念を植えつけられる。
でも、こうした不安定な基準の中に身を置くことで防御している。その基準さえ守っていれば安全という神話の中に安全地帯を見ている。道を一生懸命踏み外さ無い様に一歩一歩慎重になって、少しでも道を外れる輩に対しては揚げ足を取り否定することで、日々、不安定な安心を確認している。

好きなことをして生きる。それが人生の大前提のはず。

本来ある「自由」という大前提の中で、あるはずの無い一本道を慎重に渡っていく。誰に評価される訳でも無い。渡りきった人生の終わりに、誰も評価してくれない事はどこかで気付きつつも。この生き様は辛い。
僕自身もこれらに関しては完全に否定出来ない。このスパイラルから抜け出せなくなる時もある。すでに大きく道を外れているにも関わらず。人は弱い。
安心も安定も他者を頼る限り、そこには無い。それは知ってるつもり。安心なんて、自分の経験で得た自信だけでしか得られないことも知っている。

自由という課題に自分がどう答えるのか?

好きなことをして生きる。この「自由」という選択が実は一番難しい。
大学の授業で「自由」と言われたら、全く手が進まずに困った経験がある。お題のある課題は楽なものなのだと、この時に気付いた。乗り越えるべき困難を示してもらうことに慣れると、自ら課題すら見つけられなくなる。それは疑問を見失うことなのかもしれない。
でも、この「自由」という課題は社会に出ると常に突きつけられているはずなのに、なかなか胸を張った答えが出せていない。誰に対してか分からない遠慮があったり、躊躇したりと。どちらも全く必要ないのに。

何をしても良い。このテーマにどう答えるか。

誰も守ってはくれない。助けてもくれないのに、誰に遠慮するというのか。無条件に愛してくれる親でさえ、自然の摂理では自分より先に居なくなる確率が高い。
本来、誰にでもこの投げかけは出されているはず。
今の自分自身は自分が選択した結果であり、「自由」という問いに対する自らの答えであり、生き様だ。
文句を言おうが、こういう事なんだよね。それが「自分」を作る。

2015年8月10日月曜日

仕事と生活の選択肢は地球上に無限大。「選ばれる為に」を考えると必要なのは家守かも。

活動するエリアを決めて、仕事を始める。
どのエリアで、どんな仕事を選ぶかは個人の自由。場所も仕事も、誰もが持っている自由な選択肢でもある。
雇われる立場だって同じ条件なのだから、選んで望んで現状を得ているはず。
そんな中、どのエリアを選ぶのか。
そして選んだ人は、なぜその街に飛び込み、生活をしているのか。

少し身近な視点からの例え話

東京には色々な街がある。都外からの目線では、隣あう駅のキャラクターがここまで近くて異なることに驚く。山手線にある駅だけで、ひとつの県全体の持つ顔を網羅して、それを超えていると感じる事もある。
渋谷へ行くのか、原宿へ行くか、恵比寿へ行くか。得たい目的も求める気持ちも、たぶん着て行く服も異なるかもしれない。誰と行くのかも違うから。
それをちゃんと見極める事ができれば、店を構えるだけで自然と人が入るという店もある。もちろん更なる努力は必要だけれども、マーケティングが大切と言われるのはこのポイント、集客は一番の課題。

そして東京とは言え、街自体に人が少ない街もある。

CETエリアは後者の街だったと思うし、今でもちょっと特殊な街だと思う。マンションが増えたけれど、大型のお店を作りにくい。小さく分けられた敷地を大きくまとめるのが大変。たぶんそこにかけるお金を回収するのも大変だろう。
結果的に歩いている人は増えたけれど、マンションのボリュームに対する人の増加はあまり実感出来てない。じゃ、外から足を運んでる人が増えたか?と聞かれれば、それほどでは無いかもしれない。
ただ確実に訪れる層が居る事は実感している。

お店を構えるならば、渋谷、青山、表参道。

業種にもよると思うけれど、デザインやクリエイティブ系、更には新しい文化的な業種は、そうした渋谷、青山、表参道エリアが出店しやすいとは思う。(トライアルの時点ではリスキーだけど。短期で効果出すのも手っ取り早い)
ただでさえ感度の高い人達が、情報を探しに日々脚を運んでいる一番身近なエリアでもあるから。
買い物ついで、仕事のついでに歩いている。とも言えるのかもしれない。
ただし、生き残るのも至難の技ではあると思う。(江戸の老舗100年で起きる変化を、1年でクリアしていると感じることがある。)

その真逆にあると思うのが、CETエリア。

このエリアを選んで移り、仕事や生活をしている人たちがいる。特にローカルに特化したビジネスということでもなく、そこにあることを生かして外のエリアから人を呼び込んで成り立っているところが多い。
もちろん、そんな形でこの街へ移った人たちの集まる「場」として成り立つ形の飲食もあるといえばある。
本来、時代を重ねた店舗は、そうした地域密着で仕事帰りの人達を相手にする飲食がベースだったと思う。
そこへエリア外の方々を顧客対象とした店舗が現れたとすれば、それは気になるし多くは「難しいだろう」と言われてきたこと。
簡単では無いことは明確だし、今でも大繁盛とは言え無いかもしれない。ただ、今年で6年を超える様な店舗も増えてきた。

高速ネットの整備だけで呼び込めると思うなよ。

ネット、電気、生活インフラが整う場であれば、どこでも仕事ができる。それを看板に多くの国内の地域や外国までが呼び込むことも普通になってきた。海外では税制優遇などもあるけれど、国内の地域ではその面でのメリットは薄い。
実は交通インフラなんじゃないか?と思うことがある。都市部間での移動はLCCが解決してくれたけれど、空港から現地までのインフラがクルマというだけでハードルになる。

生きてくのに十分な仕事を維持できるか?

では、どうやってその場を選んでもらうのか?競合が並ぶことで、価格競争になるのはとても本末転倒。
選ぶ側は「そこでの生活をイメージできる」ことを望んでいる訳で、それさえ描ければ飛び込むのは容易い。
ビジネスを起こした際のプロモーションが強いこと。実は場所を選ばずに生きていける人には、これが求められている。人を巻き込み、外部から呼び込めるのはそこが強い人。
それを見え無いところからバックアップ出来る自治体が出てきたら、これ実はものすごく強いところだと思う。

アドバイスは幅広い可能性の上に成り立つ。

「facebookを使いましょう」とか「クラウドファンディングをしましょう」とか、残念な選択肢の狭さやトレンドっぽいところへ飛びつく浅はかさではフォロー出来無い。
SNSであっても「あなたはfacebookが合ってる」「あなたはtwitterが良い」と見極めたり、もっとビジネス対象として「あなたは海外向けに英語のインフォを整えると良い」と開拓を促したり。対象となる人とビジネスを見た上でのアドバイスが出来る自治体。
自分で出来る人は良い。出来ない人をどうサポートするか。それも「行政主導」ということでは無く、あくまで「バックアップ」黒子として。いろいろ見ていると中途半端が多い。見かねて議員が個人的に黒子を名乗り出てくることもあるけど限界はあるよね。ただ、そこそこ結果出てるのもある。
これ機能的には家守なんだけど、機能できる家守って育てないとダメかもね。

この仕組みとの出会いがあれば、不幸は防げる。

勢いで遠いイメージだけで知らない土地へ飛び込む人。これ結構辛いんです。移った先で「あれ?こんな感じなの?思ってたのとチャウ…」という違和感は少なく無い。やはり多少の期待を持って移るはずだろうから、落差はでかい。
初めてのエリア。馴染みの人も居ないエリアで、どう仕事と生活を両立させていくのか?遊びの時間も含めて、見直すと地域側がやれることが見えてくる。
この辺りをどこかの街と一緒に考えてみたいね。

※CETエリアとは、中央区、千代田区、台東区の一部を差すエリア。
もともと、2003年より始まった「Central East Tokyo(2003年時:Tokyo Designers Block Central East)」というイベントの通称『CET』を開催したエリアであることから、その呼称で呼ばれる事がある。

2015年8月7日金曜日

極論で選択をすると実は選択者本人が苦しくなり、そしてその周りもついていけなくなる。

たまたま「極論はツラくなるよね。」という話題があって…。
この時の話題になった対象だけでなく、最近いろいろなところで出てくる話題だなと、そんなことを思った。
この時の話題は「食事」の話だったのだけど、「あれが悪い、これが悪い」で完全に排除していってしまうと、食べれる物が限られてくる。だけでなく、食べたい時に食べる機会を逃したり。食事が苦痛になったり。
それたぶん理想としてる何かと、現在自分が於かれている環境とのギャップが激しすぎたり、矛盾があったりするんだよね。
自分の生活の環境の中で、いろいろな物と付き合いながら、偏ることなく無理の無い付き合い方が出来た方が食事自体を楽しめるよ。

生活していく場所の選択も同じだったりする。

住まいもそう。田舎暮らしを選択したところで、たまには都市部に通うことがあって良いし、趣味や興味が散らばっていても両面を知る人にとっては自然な話。
「田舎に行ったのだからそこで満足出来ないのはおかしい」みたいなのも極端すぎる話で、先の食事に例えるなら「そこの生活を楽しめなくなる」だけだろう。
頑なに頑固にそう自らを押しつける人も見るけれど、選択肢や可能性を狭めているだけで、ちょっと勿体無いと思うこともあった。

何かしらの選択をしたところで、全てがそこに巻き込まれる必要はない。

「それじゃ中途半端だ」って声もあるみたいだけれど、いやいやそれこそが人間じゃないのかな?
いろいろな物事に興味を持てる人こそ、広い視野ながらの正しい選択ができる時もあると思うよ。
偏った視野で判断する危険性に危機感を持っても良い。
都心部の文化 や流行、情報の速さや、エキサイティングなエンターテイメントも好き。その上で、田舎にある静けさや澄んだ空気、青い海が好き。
そんな答えも、自然な一人の思考でありえると思う。それを選択し、実現するひとも居る。

東京で育った僕は北海道の自然に2ヶ月で飽きた。

あの土地で人との出会いがなかったら、しばらく北海道に残れなかったと思う。
ウェブや雑誌を賑わす最新情報は、すべて海外か東京の話。やっぱり東京の事に興味が向く。
東京に来れば「北海道はいいよね。美味しいもの多くて。」って話も全面的に「だよね!」と同意はするけど、やっぱり僕にとっては両者のバランスがあることが前提だったかもね。
八王子で育ったってこともあるのかも。都心部に行くのも近く、自然に出会うのも近い。なんとなく生活圏に両者があった。
でもやっぱり、誰もが「ぱっと思い浮かぶこと」というイメージは、薄っぺらいんだよね。だからそれだけを追いかけると大した深みは無い。
「北海道=大自然」みたいなのはそんなに面白くなくて、知らなかった文化に出会った時の方がワクワクした。人の興味ってそんなもん。

変化に対しても極論は避けた方がいい。

人が「今日からこんな人間になります!」と言ったところで、実は何も変わらないのと同じで、極端な変更は本人も含めて誰もがついていけない。デジタルに白黒変わるモノじゃない。人もモノに対するイメージも。
『街を変える』みたいなことも、あまりにも極端な考え方は危険だよね。今までのモノもあって、新しいモノも取り入れる。そのバランスがとれてこそ、新しいカタチなんじゃないかなって思うよ。

2015年8月6日木曜日

「TOKYO2020 Generator」こういう遊び感覚のコンテンツは増えてくると思う。

shimizu-yoshiyuki-z production-tokyo-japan
これは面白いな。テキストロゴだけのことはある。
画像の「電源ボタン」みたいなマークをクリック。
あとは半角英数字で打ち込めば、 オリンピックロゴでテキストを作ってくれる。
作ったロゴファイルはDLもできますよ。
こうした遊びコンテンツは増えてくるかも。

2015年8月5日水曜日

街の魅力を引き出すのは、客観的な視点と、熟知した視点。若者が暮らしたいと思う街をつくろう。

「まちづくり」をキーワードにいろいろ調べると、「高齢化」が問題となっている場が少なく無い。というか多い。
ただし、日本の若者の数が0になるわけじゃ無い。割合として高齢者が増えているという状況。

その結果としての政策が、ども選挙対策にしか見えない。

数の減った若者を取り入れようとするのでは無く、高齢者の為の施設の増設や、そうしたサービスの整備や補助。
これ、若者増えなくない?
というか、高齢者の為の街が出来るだけだよね?そりゃ高齢化するのが自然。
箱を運営したり、サービスを強化するにもお金が必要。税金として確保出来なければ国に頼るしかない。そこに若者が居なければ、自立できない自治体となるのではないだろうか?極論ではあるけれども。

冷静に考えたら、若手を増やす政策が必要じゃないか?

人口として全体的に若手が減ってる。というより高齢者の割合が増えていく(医療の進歩として病気などのリスクが減ってる。環境も良い。という意味で減らない結果)状況がある。(65歳以上の割合が増えるなか、後の30年後はどうなるのだろうか…。現在の40代も多いけどね。)
本来は高齢化問題に対しての、若手世代の奪い合いのはず。でもそうした政策って後回しであったり、老人に対して規模が小さかったり。
そんな街で若者は生活をしたいと思うのか?という単純な疑問。
誰もが必ず年をとる。高齢者という年代になる日は来る。だからといって、そこに焦点を当てた政策ってサスティナブルには見えない。

若手を失った街に未来が明るいとは言い難い気がする。

世界は狭くなっている。どんな環境であっても条件が同じであれば、どんどんと少しでも魅力的な土地へ出ていく。そこで生活をしていく事のハードルは低くなっている。『若手が未来を見出せる土地なのか?』それを突きつけられている。
そう、ライバルは国内の都市ではなく、地球規模に全世界なのだと思う。若者はフットワーク良い。興味や好奇心に対する正直さも明確。

自治体はその視点を持てるか否か?

老人向けサービスを手厚く揃える政治には、選挙的な問題があるのかもしれない。この老人天国な社会を描ければ、「65歳以上に住みやすく」なんてスローガンで当選確実になるだろう。

ただ18歳に選挙権が与えられた今こそ、若手に対する魅力的な街づくりが必要だ。

それは「箱」を作ることじゃ無い。お金を配ることでも無い。
唯一「やりたいと思うコトにチャレンジ出来る『街』」なのでは無いだろうか?チャレンジする為の環境は想像以上に難しくは無い。
子育ても仕事も、趣味や遊びだって充実した共存が出来る政策。地方ほど、そして規模が小さい街ほど、そうした未来を考えて実現させることが本来は容易いはず。

求められているのはひとつ。「若者が生活したい街」をつくる。

『「この街で生活してみたいな」と思う要素って何?』という疑問を持つだけで、それぞれその街の持つ魅力を大きな武器にできることに気づく。
それは今まで見られてきたイメージに固執するのではなく、ゆるやかに客観的な視点と、街を熟知した人間とのタッグが最強。
「未来が見え無い」と言う人の瞳に、爺婆の馴れ合いの上のやりたい放題な政治の現実が写っている。地方の都市で20代の意見が通りにくく、その解決案として海外に目を向ける状況をずっと見てきた。

2015年8月4日火曜日

日本仕事百貨さんが7周年。ということで乾杯!

実はお初の「リトルトーキョー」です。
代表のナカムラケンタさん曰く「人生のなかで7年つづけたものはありません」と言い切るだけに、これは乾杯をすべき!と足を運びました。
IMG_1842
7年目という日が、区切りが良いのかどうかは分かりませんが、ラッキー7ということと、近くに「出世の石段」がある『愛宕神社』にあやかるべく。と書いてて思い出したのは、以前(何年前だろう?)日本仕事百貨さんが立ち上がった時かな?のUSTREAM企画で、愛宕神社のお守りが当選!ものすごくご利益があった。(と思っている。)
この「リトルトーキョー」は『もうひとつの肩書きを持てる街』というテーマを掲げ、クラウドファンディングによって誕生したスペース
様々な人たちが、この場所での肩書きを持ち活動をする。そのチャレンジをする場所という認識(は合ってるかな?汗)
仕事バーとして、日々イベントが開催されています。予定ページ見るだけでもワクワクします。気になった方は、この機会に扉をノックしましょう!
スクリーンショット 2015-08-04 1.43.33
(8/6 は馬場さん来るのですね。これ行きたいな。)
本日もかなり賑わっている場でしたが、ケンタさんを入口で発見し乾杯!
残念ながら9月でここは終わってしまう(もともと定借という契約だったらしい)とのこと。それまではもう一度イベントへ足を運びたいなと。
ケンタさん、おめでとうございます!
そして更なる飛躍を!!

2015年8月3日月曜日

時代が求めるニーズに都市も地方も関係は無い。選択肢が増えたことで加速している。

地方の店作り。例えば海外を含めた都市部から移住した人の店がピックアップされやすかったり、人気が出たり。もともとあったお店とは異なる扱われ方がある。
これ、ポイントは店作りに大切な雰囲気づくり。『センス』なのだと思う。これはけしてお金をかければ良いって話では無く。たぶん予算を使う上での「優先順位」と、問題解決としての「アイディア」の問題。

競合が多く鍛えられる場で育った人は、どんな場所でも強い。

都市部からの移住者(出店者)は、そこが鍛えられていると思う。どんなことでも鍛えられた人間は強い。競合が多い場は常に戦い。手持ちの お金が限られるだけに、常にアイディアが必要となる。そんな場。
多くの新店舗が進出する背景に、消えて撤退する店が同じ数だけある。
そんな場に居た人間が、競合が少ない場へ出店することは自然な流れのひとつでもあり、そのエリアに惚れた人間であれば、更に本気で立ち向かう。生半可な店舗が太刀打ちできる訳がない。ピックアップされやすいのも自然な流れ。
そう、大切なのはセンス(頭脳)なのだと。

良き時間の重ね方で時代を経た場は強さがある。

地方に出向いた時に、興味を沸かせるお店は雰囲気が良い。オーラがある。外から見た箱のあり方と、その周りの環境との関係性。
老舗として、そこで積み重ねてきた時間が店の雰囲気まで育てる店作りがある。扉を開けて中に入りたい。その前に、そもそも目を引くことも大切。それを持つ店舗は時間と共に進化・成長がある店と思う。
一方、それに立ち向かうべく新しく進出するには、見た目にエイジングを施したところで本物には敵わない。新しい店を作るなら、店構えが大切。

求めるニーズに対応できるのか。競合が業界を育てる。

例えば、「若い世代は都市部の雰囲気が好きなだけ」なんて言われるけれど、それはやはり「その時代で求められる場」がそこにあるわけで、住む場所は関係無く、消費者は自分が求める場所へ向かうだけのこと。
複数の通販などの選択肢が増えた中、わざわざ自分が心地よくなれない場で消費をする必要は無くなった。
そんな状況でも「時代が求める場が集まる場所」それが都市部であって、地方は圧倒的にニーズに間に合っていない。そもそもそこまで投資する必要が無いというのが現実だろう。
どちらかといえば、都市部で出店したとしても、そのエリアだけなく地方から客を呼び込むことが出来るか否か?その宣伝力と発信力、ブランディングに対する切磋琢磨は凄まじいものがある。
競合としてのライバルが居なければ、新たに投資する必要は無く、メニューづくりや品揃えさえ時代に追いつけば良い。そう、先に書いた「都市部の日々の戦い」とは正反対だ。

そのデザインや商品が生まれた背景を見出す力。

ただ、そのニーズの上辺だけを拾ってしまうと、2〜3年後にある「時代遅れ感」は半端ない。たまに中途半端な年代の流行をコピーしたまま、紫外線に焼けた看板を駅前の一等地に見つけると残念に思う。(それはそれで面白いと思う反面、一般的では無いと思ってる)
進出時にニーズを追いつつも、時間を重ねることで成長する店作り。つまり時間を含めたデザインが必要なんだ。これは鍛えられたセンス(頭脳)が必要。
本当に「良いもの」、そして「そこで続けていくこと」。
そこで店を出すということは、そこで時間をかけて店を含めたエリアと共に生きるということだと思う。目の前のお金を追うばかりでは、ここは見逃すことが多い。でも、長続きさせるにはこれが大切。
どんな商売でもイニシャルは抑えたい。走り出したら、小さくともそれなりに回収できるビジネスである必要もある。ただ焦りは良くない。3年は眺めつつ計画を練りたい。

魅力的な店舗と店主。そして街の関係。

自分が作りたい店、提供するサービス、それによって喜ばれる顧客。それらをイメージしながら生み出す場所。それを自分の財布を見つめながら、一切妥協せずに実現できるか?
限られた条件の中で、最善を尽くすこと。あまりにも弱気になって、優先順位を間違っていると感じてしまう場があるのも事実。
ただ、それなりに中途半端な店作りのまま、それが継続することもある。それは競合が居ないからという状況なだけであって、エリアとしては危機感を持つ必要もあると思う。
その街へ「出店したい」と思う店が増える様な環境づくりは、街のブランディングにもつながる。街としての様々なニーズに対応できる幅広い度量と、クオリティを見る力が求められる。

街には複数の顔がある。そのバランスが欠ける事に危機を感じる。

間違えないで欲しいのは、街に「センスの良いものだけを並べよう」ということではない。街は様々なニーズがあって幅広い数の店がある。それらが良い意味で共存できること。それが出来る街が実は少ない。
どちらかに偏るまちづくりが多いこと。これは一時の安易な遊園地でしかない。そんなハリボテに未来は無いのだ。

人気の投稿

Google+ Followers