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20161202

なにか生きてる理由があるのかもしれないね

「出来ることなら今すぐ死にたい」と言うのを聞いて、そんな事言う人を眺めながら「まぁ確かにその状態ならその気持も分かるかも」と先日。
今までは一般論としての「なんてことを言うのだ」「そんなことは言ってはいけない」と答えていただろうけど、その時そう言わなかったのは違う考えが、ふと浮かんだから。

結果的に僕が口に出したのは

「どんなに苦しくとも、死なずに今生きているのであれば、なにか生きてる理由があるのかもしれないね」

と。

結局歳を重ねても、身体的な状態や健康状態などでも、生きる理由なんてあまり関係ないのでは?とその時あらためて感じた。子供の命と老人の命の大切さは違うのか。病気の人は、ハンデを持つ人はかわいそうなのか。

いろんな状態であれ、生きてる人は生きている。
見方によっては、それは残酷なもので、何も目的がなければただただ時間が流れていくだけ。

何かしらの好奇心さえも失った時が一番つらいだろう。
朝が来て、目が覚める。食事をして横になる。そしてまた夜がくる。その繰り返しを受け身でいるとつまらないだろう。

どんな状況でも出来ることはある。

生きている状況を活かせないのであれば、それはとても辛い時間となる。ただ過ぎていく空白。現状を嘆くことは簡単なことかもしれない。

何らかのハンデがあれば、それが辛いと嘆くものなのかもしれない。それは個性と言う人もいるけれど、案外そういうものなのかもしれないね。

「つまらないから、死にたい。」というのは勝手だけど、死なずに生きているのだから、やっぱ何かやった方がいい。ハンデがあっても、出来る事があればそれで良い。そこに正解は無いし、誰かと比べるものでもない。

どんなことでもいいと思う。空想だって良い。何か考えるだけでも良い。
ムダなことなんて無い、ただ何にしても前向きに能動的に取り組むほうがいい。

だから、反射的に、
「死にたいと言っても、死なずに生きているんだから、その時間を有意義に過ごす何かを見つけたほうが良いね。それは何かと考え続けることでも良い」

僕はそう思ったんだ。

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