Translate

このブログを検索

20170821

「これってお金になるんじゃないか?」って発想こそ、その人を育てる

北海道時代、ヒッチハイクを求めてくる人が普通に居た。地元の人達も日常的に乗せたりしてた。そこで記憶に残ったやりとり。
「お金が無いから飯をおごってくれ」というヒッチハイカーに対して「お金が無いからって理由じゃおごれない。でも、もし僕を楽しませようと、たとえば漫才をしたり、マジック見せてくれるなら、その対価として支払うのは良い」って返したらしい。
なんか物凄く腑に落ちたやりとりだった。

「お金が無いからお金をくれ」って言うのって、物凄く無能感あるなって思う。でも何か一芸をして「その対価としてお金をくれ」ってのは、普段の仕事と同じじゃないか。そこに社会がギュッと凝縮されている気がした。

最近、国が力を入れているからか、「子どもの貧困」に対する記事や広告を目にする。そんな中でこのエピソードを思い出した。

例えば自然災害などで困っている人たちへの募金などであれば、その時の自分の気持ちとして何の見返りも求めず出すことは心地よいものだったりする。

しかし、もしお金を求める側だったとしたならば、誰かからお金を得ようとする時に「金ください」って言って、すんなりもらえるとは思えないし、万が一にもらえたとしても、金額的にも効率的にもよろしくない気がする。
だったら「僕はこんなことが出来るけれど、対価としてお金をもらえますか?」って事がシンプルであって、相手にとってみても嬉しい結果が手元に残るカタチとなる。

じゃぁ、一芸を持つべきか?と問われると、そうも言い切れないかなと。
もちろん「一芸(才能)」は分かりやすくプレゼンしやすい。ただ、これを読み間違えると「資格主義」な世界にまっしぐらな危険性もあるよね。

では、何が必要?と僕が考えるとするならば「発想力」だと思う。

アイディアは元手が掛からないし、無から生み出せるものだと思う。もちろんその発想の為に色々と経験や知識も必要だけれども、そういったものだけで無限に生み出せるものだと思う。

「これってお金になるんじゃないか?」って発想こそ、その人を育てるのでは?

その生まれた発想の為に必要な技術やスキルはその時から学べば良い。技術やスキル、ましてや資格を持っていても、発想が無ければただの肩書でしかない。

もし、現在の環境から何らかの理由で抜け出したい時、一番裏切らないのは「自分」であって、その時に力になるのはいつも「発想力」だと思う。

人気の投稿