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20160627

Facebookに蓄積された思い出は、記憶よりも引き出すことが困難だった。振り返ることの出来ないツールに蓄積される情報は誰の為のものなのか。

日々色んなこと考えてるつもりだったけれど、恐ろしいほど言葉にしていないってことに気づいた。TwitterやらFacebookやらで、分散して色々なところにログを残しているつもりで生きてきたけれど、結局何も残っていないのだと気づいた。

Facebookは検索機能が基本的には無いから、ポジティブメディアとして、その瞬間のログを書いて消えていくだけ。

Blog的にメモを残そうとしたのは、また違った切っ掛けだったけれども、それをここへ移行して分かったのは50本くらいのエントリーだけだった。

もっと書かなきゃ。と思うのは、今の自分が日々不安や抱える課題の渦の中でグルグルと停滞しているから。
自分の頭の中で、いろいろな物事を考えて考えて、そうして気付くのは自分の視点と、自分らしさ。「自分はこう考える」という現状の傾向を知る上では、書くことはとても良い事だと思う。

家族や友達、恋人に聞くというのも手段だけれど、自分の見えない内面を探る作業は、どこかデトックスにも似ている気がする。

他者から指摘されたり、教えてもらうことは、どうしてもスムーズに飲み込めない事もある。後から「あー、そうでしたね」と納得することも多いけれど、その場では共感しにくい情報も多いから。
「今の自分はこうだ」と突きつけられると、どこかで分かりながらも無視し続けてきている事柄だったりするから、どうしても認めることが苦しいと感じる事があるのだ。

振り返るのは必ずしもポジティブとは言えないかもしれないけれど、振り返ることの出来ないツールに蓄積される情報は誰の為のものなのか。

FacebookやTwitterに書き込むよりも、できるだけライフログとして残すほうが良い。そう感じるままに、ここを使おう。

「SNSに疲れた」というのもあるかもしれない。でも、よく言われる「付き合い疲れ」ではなくて、「何も残らない切なさ、悲しさ」によるショックが大きい。
その場その場で投稿しやすいFacebookは、アプリのインターフェイスも良く設計されていると思う。それに友人知人が反応する見せ方もいい。
もちろん、友人知人のパーソナリティーや近況を知るにも便利なツールだ。

これはリアルな接点を持つ際の基礎情報として生きるデータだ(例えば、今日これから会う人のfbページを見れば、この後のコミュニケーションに使える)けれども、自分自身が記憶を振り返るには適してないツールだよね。

最近は「いいね」意外のリアクションもできるけれど、基本的には「いいね」だけのポジティブメディアだ。この部分に「人の意見にイイネだけで応えられるはずが無い」と言った人もfbが流行り始めた当時耳にしたけれど、これは使い方の問題。
ポジティブメディアは「良い」「楽しい」「気持ち良い」瞬間があるべきで、それに対して「イイネ」となる理由で、難しい議論やつまらない意見などは本来相性が良くない。

議論や意見がくだらないという訳ではなく「それは他でやってくれ」という話。
でも、fbの裾野が広がり、多くの人達の「情報源」として使われる様になった今となっては「イイネ」だけのリアクションでは厳しくなってきた。
今の使われ方は「fb」にとって好まない位置関係にあるのかもしれない。

その部分の設計が変わらない限り、やはり「その場の感情を書き留めて、時間と共に消えていく場」であり、ライフログとしては偏った(時に演出された)素敵な自分の記録しか残らない。そして、それは無闇に検索しやすくするものでも無いのかもしれない。
想像してみると「昔は良かったな」という幻想に付きまとわれそうで、それは悲劇でしかない。

気持ち良い感情も、悩みも、苦しみもその人の人生

やっぱり正直な自分の気持ちを残すなら、まっさらな紙に残すのが適している。
ブログの「ログ」の意味の大きさを今は感じたりする。その時々の言葉や思い、感情をを大切にしよう。
生きていれば、良いことだけでなく、辛いことも起きるもの。それら全部が人生なのだから、一部分を切り取った場だけが残るのもアンバランスだと思う。

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