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20160624

編集とアウトプット。自信と信頼。

仕事でも個人ワークでも『メディア』と言いながら、そこから生み出されるサービスに関しては頭固く考えてきたことに気付く。
「こうあるべき」「今時代はこうだから」みたいな言葉が先にあり、サービスを設計してきたことが多かったかもしれない。
『編集』を行うことは、なんらかのアウトプットへ繋がる。
だからこそ「他者がどう感じるのか」や、「自分を良く思われたい」という思いが、こうしたことに繋がるのではないか。
それらは新たな分野への自信のなさの現れでしかない。これに気づいた瞬間に恥ずかしく思う。社会に出て20年経つよ。
媒体問わず、溢れるメディアの中で、瞬間的な存在であればそれで良い。今乱立するニュースメディアなども直ぐに消えるだろう。
しかし、本来のメディアとして成立させるのは「自分目線の編集」だ。その筋が通るからこそ、人はその情報に価値を見出す。
「メディアはこうあるべき」という思考が、情報の中に存在を埋もれさせていく。「常識」という名の安易なトレースは、結果的に似せて、寄って、近づき、自ら埋もれていく行為だった。
『編集とは何か』を常に問うてきたはずなのに、どれだけの時間迷い続けただろう。 まだこれを書いている時点で、不安やゆらめきもあったり、更にまだまだ同業他者を気にする点はゼロには出来ていないだろう。隣の芝は常に青い。
「等身大」という言葉がよく表しているのかもしれないが、この言葉が「自分らしさ」にかかる言葉とは思わなかった。

自ら、人生を編集する。

日々の過ごし方も、興味についてもそう。本音と感性で飛びついているはずなのに、アウトプットは他人をなぞるという弱さは幸せでは無い。
最後の最後で自分らしさを失っているのだから。
そこにあるのは、他者の目線を気にする気持ち。
どこかで「他者に認められたい」と思う気持ちは誰もが持っている。好きな人から良い言葉を掛けられたら嬉しいではないか。
他人に認められることで、自分が存在する。これは社会に於いては正しい。人が最も人らしく生きる上で大切なことだと思う。

承認欲求と問題点は、認められたいと気持ちの一方通行な部分。

他者を認めることで、自分が否定されるわけではない。それぞれの得意不得意があって役割があるのだから。
互いに支え認め合うことが理想な中で、なぜ認められようとする気持ちだけが先行するのだろうか。そこに自己中心的なアンバランスさがある。
他者に認められようと怯えると、冒頭の様にアウトプットが自分らしさから遠ざかってしまう。
まずは他者を認めること。それが第一歩だとあらためて自分に刻む。
他者への信頼があれば、自信を持って自分の言葉を伝えられる。
自信を失うのは、他者を信頼していない結果かもしれない。
自分への自信の無さが、結果として相手を信用できていないことの原因につながる。
メディアやサービスを作るにあたり、信じるべき「相手」とはなんだろう?それは、マーケットやターゲットがあるかもしれないけれど、まず一番分かりやすいのは、身近な人達を基準にして良いと思う。
信頼できることこそ、自分の強みや自信に繋がる。

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