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20150731

自分に必要な情報は半ば強制的に届けられるモノであるべきなのでは?そこに他人による選別(キュレーション)は必要無いかもしれない。

「マッカーサーの使ってた部屋」というのが一般公開されたとニュースを見た。この時驚いたのは、かなりの年配の男性が見学に来ていたこと。
子供ながらに戦争を体験されてる世代か?と思われる歳と思われました。
何に驚いたのか?それは、その方の好奇心とフットワーク。そして、情報収集能力。
普段は見れなかった場所を一般公開。というだけで、ちょっと気になる。でも、僕がその情報を知ったのはそのニュースであって、そこに来ている人達は事前に知っていた。
どこからその情報を得たのだろう?こういう時に想定するのは「紙の新聞」だろうと思う。
隅々まで読むと、こうした情報が小さな記事で扱われている事がある。本当に小さく、内容もタイトルと日時、問い合わせ先のみくらいで。
こういった記事を見つけた時の感覚って、最近得てい無いなと。
ニュースもテレビやウェブ。新聞もウェブばかりを閲覧していて、紙を読む事がほぼ無い。ホテルで配ってくれる所に泊まった時くらいか?
でも紙の新聞には、こうした情報の出会いがあったりする。自分の興味のある無しに関係なく、結果的にプッシュされる記事。
ウェブを渡り歩くと、自分の興味あるニュースや、大きく取り上げられたモノしか目にしない。ましてや、ウェブ上のニュースは無限なので、隅々まで読むなんて行為は不可能すぎてやらないよね。
今の自分が知らない事で興味の対象となっていない情報に巡り合う機会が無くなった。
知れば興味を持つだろう事と、出会うキッカケは半ば強制的に届けられるべきであると思う。
雑誌もそう。特に学祭時代は隅々まで読んだ。なにより雑誌が自分の生活の中で高価な位置づけだったから、そんなに頻繁に買える事もなく、一度買ったら何度も本当に小さな記事まで読み込むしかなかった。
でも、その事で出会えたこと、引き出しを増やしてくれた事ばかり。足りない情報を探しに行動するのも、こうした足りない情報だったからこそではないか?
話題となる競技場やロゴが、自分の人生にどれだけ大きな影響を残すのか?もっとそんな事を考えてる時間に知るべき大切な事があるのではないか?
なんかそんな事をニュースの映像から感じた。

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