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20171012

フリーの立場での長期休業という不安

仕事を長期間休業する。フリーの立場であれば、そこにある怖さって伝わるものかもしれない。なんとなくその感覚を持っていた。

そんな中で、とある記事にあった一言。
「あるアーティストは表現に枯渇したとき、自然に数ヶ月こもった」と。

そこから感じたのはインスピレーションの充電方法や、メンタル的なバランスの取り方とかではなくて、働き方。(休息の方法は人それぞれだから参考にならない)

このアーティストは4ヶ月こもった後にも、必要とされる場がある。仕事をしながら、それだけの支持を得る場を作り、伝え、自らを育ててきたのだと。

自分が数ヶ月仕事を休むことで感じる不安は「他の人に仕事が取られて戻ってこなくなるのでは」ということ。
それは「誰でも変わりが務まる結果しか生み出せていないかもしれない」という弱さなんだと思う。

他の人には出来ない自分だけの「表現」や「結果」に誇りを持つことが大切なのだなと。もちろん、それを適正に評価してくれる相手も大切だ。どんな立場であれ、独りよがりの過大評価は最悪だけど、客観的に指摘してくれる相手は持つべきだろう。

早くから社会に加わっていかないと、自分に対する評価が適正か否か判断が遅れるものと感じている。「仕事が出来る人」の存在を知り、「自分の仕事のレベル」を知ること。他者を知らずして、自分の出来不出来はわかるはずもない。
学校や企業など、組織に加わる場であったり、そうした環境での働き方の際には、その場の空気などもあって、より社会的な視点を見失う怖さもあると思ってる。

間違った転職志願なんかも、こうした場で自分を見失うことによって、過大評価をした結果に多い。(そこそこ知られた会社での立場を社会での立場に置き換えちゃうと、裸の王様になっちゃう)

もちろん、組織に加わりつつ、社会との接点をしっかりと持つことでそれは回避できるものだけれども。偏った情報やコミュニティの危険性はここにあると思っている。フリーの立場であっても、閉じたコミュニティに依存すると同じことになる。その場合は最悪だ。

特に若い頃は適正に評価される事が難しい環境も、そこそこ日本には残ってると思う。若いとか経験が浅いってだけで舐められる時がある。(多くの場合、年齢だけで評価しているその人がクソなんだけど)
ただ、少しずつ感性やらセンスを適正に評価できる人たちも表立って増えているのも確かだ。

仕事を休むことで仕事を失うと感じる人間は、初期の頃に適正な評価が得られなかったのかもしれない。成功体験は数あれど、いつまでたっても不安が大きい。ただ、その不安があるからこそ生き延びれてきたという点もあると思う。

仕事より大切なもの。それはその人の人生。
どう生きるか、何を楽しみ、何を喜んで、何を目的として過ごすのか。
根底にあるのはそこ。

なぜか日本では「仕事」が一番大切みたいに扱われる上に、仕事に裏切られると全てを見失う人も居る。そんなつまらん人生は残念だ。

何かを強制されて生きている訳ではなく、楽しむ為に(それが仕事という事もある)生きているのだから。やりたいことをやれば良い。仕事したければする。したくなければしない。その選択がなぜかしにくいと感じてしまう。

「でも、お金稼がないと生きてけないし、やりたいことも出来ない」って意見は、逆。
やりたいことからお金を得る方法を考えればいい。
画が好きな人は画を描くことでお金を得る。画の描き方を教えることでお金を得る。画を評価することでお金を得る。色々ある。

「好きなことを仕事にすると、嫌なこともしなければならないから嫌いになるって聞くよ」って言われたこともあるけど、なんで「嫌なこと」をするのかと。
嫌なら断る。シンプルにそれだけのこと。

すると、最初に戻る。
「断ったら仕事来なくなるのでは?」と。

たぶん小さなことの積み重ねなのかもしれないね。
「嫌な仕事は断る」もしくは「適任者を探して提案する」くらいのことをしていくと、断っても仕事が来る事を知れる訳で、休暇をとっても仕事が来ることを知ることが出来る。

長期休暇を取ることを不安に感じることは不幸だと思う。(まさに僕なんだけど。)
それでもまぁ、嫌な仕事は断っている。それでも不安はあるのだよな。

不安は悩んでも解決はしない。多くの不安は「見えない、わからないこと」だから。結局悩んだところで答えなんか出ない。
いくつか経験することで、少し見えたり、ちょっぴり分かってきたりして、そうして不安は消えていく。

ということは、まだまだ経験が足りないのだなって思ったりする。
そんな40代か。思ったより未熟なもんだ。

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