Translate

このブログを検索

20160714

Facebookという閉じた場での主張はどこに繋がる?

情報は人を伝って流れていく。人から人へ。Facebookはそれを視覚化したSNSで、自分の発信した情報が、人を通して、更にその先にいる人へと伝わっていく。

「Facebookは閉じた場」という考え方は前にも書いたけれど、やっぱり伝播力としての強さが無い。どうしても内輪での盛り上がりでしかない哀愁がある。

情報は必ずしも一般的である必要はない。広告宣伝のように無差別に情報を撒くよりも、人と人の繋がりから生きる情報がある。仕事の繋がりもそうだと思う。

個人での活動が強くなってきた世の中で、手広く不特定多数を相手にするビジネスよりも、つながりのある個を相手にするビジネスの方がリアリティがある。

そういう場としての発信は「Facebook」の様な閉じた繋がりの方が、信頼性も高まるものかもしれない。

有意義な発信としては、「同調する仲間」「共感出来る仲間」を募るには良い方法かもしれない。それはビジネスや趣味に寄ると、相性は良くなると思う。

もちろん愚痴なども人を呼び寄せるモノにはなるが、ちょっとドロっとした場になる可能性もある。それを望むなら良いのだけれど。


学生時代からの友人が、あまりにも愚痴を書くのでフォローを解除した。愚痴でありながら、自慢っぽい内容が含まれている。楽しい事を「楽しい」。嬉しいことを「嬉しい」と素直に発信出来ない人は苦手かもしれない。

Facebookに限らず、SNSは長い目で見た時の日記だと思ってる。その場その時で感じたこと、考えたことをメモ程度に記しておくのは良いと思うけれど、振り返った時に心地良いのは「良かった」「楽しい」思い出だと思う。

時系列で見ることも無く、後から見直すことも無い「発信しっぱなし」の無責任な場として使っちゃうと、後々気分悪いのは自分な気がするんだよね。


思っている以上に、自分の考えは変化するし、時間の流れの中で全く正反対の生き方を選択することもある。
主張は良いのだけど、押しつけっぽくなる話は心地よくないぞ。というのは、相手にとってもだけど、日々変化していく自分にとっても言えることかもしれない。

もし、もしも主義主張を強く発信したいならば、専用の場所を作るほうが効果も出ると思う。

人気の投稿