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20180105

カッコ良く生きるということ

「カッコよく生きてください」そんな言葉をもらったのが3年前。それ以降、ふとした瞬間にこの言葉が頭に浮かぶ。「カッコよく生きれているだろうか」と、いつも考えてしまうけれど、答えは毎回出てこない。

カッコよく生きるって、たぶん誰に評価されるってことではなくて、自分自身で納得出来ているかどうかなのだと思う。
外見だけを変えても何も変わらないけれど、良い服を着ると背筋がピッとする感覚は心地よいのは知っている。どちらがカッコ良いかと考えれば、お気に入りの服を着ているのは分かるよ。でも、このあたりは追い求められてない。

「朝起きて寝るまでにやりたい事をする人間が成功者だ」ってメッセージも、何歳かの誕生日にもらった。
いつ何をしても許される生活ではあるけれど、やりたい事を全てクリアしているかと言えば、そうでも無い。なんだかんだと無理なく出来る事を探している感じ。

まずいな。「カッコ良い生き方」から随分と外れている。

自分がどこかで納得出来てないのは良くない。

欲望が常にあるからこそ、ずっと探り続けて、模索して、探して、求めて、考えて、脚を運んで、手を伸ばして、そんな生き方が一番人間っぽいと思う。

そういう意味では、ずっと欲望に正直になることが出来るようになった。そう思う。
もちろん周りのサポートが強いのだけど「遠慮せず手を伸ばしなさい」と声をかけてくれる人達が居るから、自分らしくなれるのかもしれない。

どこで人と出会って、どう生きていくのかなんて、誰にも分からないし、予測もつかない。ただ自分の「好き」には正直にあるべきなんだなってことだけ分かってきた。

いろんなことに挑戦出来て、その成功体験から次への欲望が生まれ続けている。
「こんなことをしてみたい」と、具体的にそれを実現させる手段は分からなくても、少しずつそこに近づく事は出来る。そしていつの間にかそれを実現してる。そんな生き方。

夢は叶うと言えばそれまでだけど、たぶん願うことが行動につながって、結果的に自分をそこに近づけているだけのことなんだよね。
だから「どれだけ強く思うか」が、行動のクオリティをあげていく。失敗をしても次の一手が早まるだろうし、一歩近づけば、更に次の一歩が踏み出せる。その繰り返しのスピード感は「願い」という気持ちに比例するんだろう。

いろんな束縛が見えない鎖となって縛っていることがある。ある種の「呪い」なんだろうけれど、ずっと規制されることで芽生えた価値観はなかなか変えられない。
「社会がそう言うから」と繰り返されれば、それが「社会というものさ」となる。それは一生つきまとうものなのかもしれない。

「呪い」は、なるべく早く解き放つ方が良い。

生き方に正解が無いのは、全てのルールに正解が無いのと同じことなんだと思う。結局は本人がどう解答を導き出すのか。
その解答は、その人自身の価値観であると思う。

カッコ良く生きるということは、その人の価値観に応じて、その人の人生を正しくおくることができるか。価値観に合致すればカッコ良いのだ。

今居る場所を正しい場所、道として信じ、そこから踏み外さないことに全神経を集中させる生き方もあるだろう。
今とは違う場所を見つめながら、もしくは空想しながら、そこを正しい場所、道と思う生き方もあるだろう。

どちらもその人の生き方。

僕は今、この生き方や生活に満足しながらも、もっと理想的な場、道があるのだと追い求め続ける生き方。
ずっと満足できないけれど、ずっと楽しめる生き方なんだと思う。

出来ることをする。やりたい事をやる。その日の一歩を正しいと思う方向へ進める。
もっと動きは早めても良いかもしれない。時間が足りない。

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