Translate

このブログを検索

20160713

NHKスペシャル『“介護殺人”当事者たちの告白』

http://www.nhk.or.jp/d-navi/link/kaigosatsujin/“介護殺人”当事者たちの告白

えらくショッキングなタイトルだけど、内容は誰もに起き得る状況が淡々と映しだされた。最後の選択肢については人それぞれだけれども、それを選ぶまでに経験する時間は「介護」という行為が同居する生活の中に、日常としてある風景だった。それが恐い。

なんとなく、その中で苦しめられる人は「答えはひとつしかない」と決めがちな人なのかもしれない。社会や組織の中では、生真面目な人ほどそういう思考になりやすいのかもしれないなと、映像を見ながら考えた。

目の前で起きている家族の変化は「問題」であり、その問題をクリアすべく「タスク」が発生する。「問題」についての状況を確認し、その解決策は最善の方法ひとつしかない。それが「◎◎だ」と決めつけてしまう。これが自分を苦しめることにもなる。

組織の中では、それぞれの負う責任の範囲で役割があるのだけれど、それは組織全体で進めるべき進行なのだ。自分の役割を明確に把握し、推進させることは得意でも全体を見ながら人員を集めたり配置させたりが下手なタイプは陥りやすいかも。

家族の介護が必要となったタイミングでは、経営者的な視点が必要なのかもしれない。

何が起きていて、何が必要なのか。その為の必要な人員やサービスを、どれだけ積極的に活用出来るか?その効率を少しでも良い方向へハンドリングすることが出来ればと。
突然の状況が起きて、後出しの受け身状態から始まるのは展開として常に辛い状況だ。出来れば先行して攻めの方向から模索できれば、精神的に良い面もある。



家族に起きることだから、そう簡単にドライな判断をすることは難しい。ここが仕事でない困難なポイント。気持ちを割り切ることや、今までの記憶や思い出が邪魔になることの大きさがある。こうした感情は人だけなのだろうか?

一概に「気持ちの持ちよう」とは言いがたいし、「自分だったら」という視点からしかモノが言えない。だから、『僕だったら「攻める」動きを取りつづける事が、自分の精神を安定させる唯一の方法』なのだろう。

状況を把握することで、一番気持ちとして落ち着くことが出来る。状況さえ分かれば、様々な攻めの方法を考えることが出来るだろうから。少しでもその状況下で取れる最善の選択を常に考えたい。一つ決めたらそれでずっと進行することほど、辛いことは無い。大切なのは「いつでも選択肢を変えることが出来る」ということ。

「死」がチラつく時、思い込むほど「それしか選択肢が無い」となる。それは半ば望みでもあり、「そうしたい」という気持ちが「それしか無い」と言い換えて、自分を納得させている様だった。

そう見えた瞬間は当事者のことを「ズルいな」と思う。相手のことと言いながら、自分の為に相手を殺している。だとしたら、ズルい。



介護は終わりが見えないし、終わる時は「死」を迎える時。永遠にも思える介護生活の中で、どこに希望を見出すのだろうか。日々進行する症状は、改善よりも確実にスローな「死」へと向かっていく。そのブレーキ側に加担しながら、ブレーキがかかることを嘆くのだ。

介護者が死んでくれたらと思う気持ちは自然にあると思う。ただやはり家族だからこそ「最後まで出来ることはしてあげたい」という真逆の思いが混乱を起こす。
結果的に全てから開放される「ズルい結論」へと導かれてしまうのではないか。



社会制度が全て解決させるとも思わない一面もある。
症状を起こした介護者は社会が原因とは言えないから。

原因は何なのだろうか?

昔は分からない。ただ自分の祖父母4人は比較的最後まで元気だったけれど、数年の入院生活の後に死を迎えた。自宅介護は無かった。

病院に患者があふれたから、自宅介護を選択させられる家庭が増えたのだろうか。この辺りは調べなきゃ分からない。ある年齢層の人口が多いからこそ、割合的に変わらなくても絶対的な人数が増えているのかもしれない。


テレビでも言っていたけれど、介護は突然やってくる。備えることは出来ない。
例えば、昔、祖父が亡くなった時に慌てて礼服を買いに行った。それを見て「準備不足だ」と言われたけれど、入院時に買うのは縁起でもないし、そもそも必要となる前に買うものかどうかも悩んだ。
介護はその経験以上に準備が出来ないものだと今は思う。


そして、介護生活に突入すれば、目を背けたくなる様な出来事が起きるわけで、それが家族ということだけで、精神的なダメージは肉体的なダメージに加えて襲いかかる。



介護者を殺してしまった選択は誰も責められないだろう。それくらい突然の生活の変化だから。でも、そうした状況が常に身近にあることを知っておいても良いかもしれない。
今は他人事でいい。ただ、他人事ながら色々なことを考えることが大切だと思う。無責任でも良いし、理想論でも良い。とにかく考えること。

そして、それが必要なければそれは素晴らしい。

もし身内に起きた時には、「様々な選択肢」があることを知ること。介護サービスについても、効果的な自分の家族にあった使い方がある。色々と条件が提示されるけれど、それはそれで、要は考え方と使いようだ。多少なり器用に、そして時にズルく生きていい。

例え死を選択するとしても、正解は無いと思う。ただ、なるべく多くの選択肢や可能性にトライした後に考えたいなと思った。

人気の投稿