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20160708

本当に機械に仕事を奪われるのか?

元蒸気機関車の運転助手という人がテレビに出ていた。そこで浮かぶのは「蒸気機関車を走らせるのに何人必要だったのだろうか」ということ。
僕の勝手なイメージとしては、運転士、石炭をくべる人、車掌に加えて、サイズによってはそれぞれの補助スタッフも居るはず。映画などのシーンから想像するしかないのだけど。

先日も使った「ゆりかもめ」には運転士がいない。車両の一番前から眺める景色が好きだ。子供が居る時は遠慮するけれど、そうでなければ一本やり過ごしてでも、最前列に乗りたいと思うくらい。
他の電車の運転士はこの景色を見ながら仕事をしているんだろうなと、羨ましくも思ったりする時間。


機械に奪われない仕事とはなんだろうか?


技術の進歩(ソフト面)と環境整備(ハード面)によって、人間が現場に必要無いというより、関わる人間を最低限にして、効率良く機能を運用することが出来る。
この交通機関で表現するならば、機械に仕事を奪われるというより、必要な人数が少なくなってきたと表現する方が適している。

もちろん、気遣いや心遣い、細やかなサービスなどの面では、効率では割り切れない仕事が発生する。その面では人間でないと対応出来ないという事もあるよね。
ホテルなどでのチェックインやポーターサービスについては、ロボットや画面の方が効率よいけれど、細やかな悩みや相談に対応してくれるコンシェルジュは人間であった方が良いよね。

タクシーなどもA地点からB地点までの移動ということであれば、移動と支払いに関しては自動運転や画面でのやりとりが効率良い上に、安定したサービスを提供できるけれど、やはりハイヤーに関しては、人間でないと対応出来ないサービスもある。
ちょっと環境は異なるけれど、日産カーウィングスでのオペレーターサービスは、ボタンひとつで相談に対応出来る上に、ナビの設定まで遠隔からしてくれる。これは窓口として人間が対応してくれるからこそ、サービスとして成り立っていると思う。


結局、機械が対応するのか、人が対応するのかは、適材適所なんだよね。


仕事に関して「機械に奪われる」「これから無くなる職種」とたまに出てくる話題もあるけれど、結果的に公平で安定したサービスと、臨機応変な対応という視点で別れる気がする。
今人間が対応しているけれど、本来は機械が対応する方が良い。という仕事や職種は多々ある。それらは技術かインフラなどハード面が追いついていないだけであって、結果的に機械が対応することになるだろう。

それに対して「仕事を奪うな」と言うのはちょっと主張が通りにくい。


機械が適している、人間が適しているという仕事がある中で、その人個人個人に適した仕事があるということも言えると思う。
まだこの辺りの振り分け機能がうまくシステム化出来てないとは思うのだけど、いずれ個人の能力や、やりがいなどの喜ぶポイントなどを的確に抽出した上で、的確な仕事の斡旋という仕組みも出来てくるのではないだろうか。

「仕事まで機械に斡旋されるとは、まるで機械に支配されている様ではないか」と言う人もでてくるかもしれないけれど、そう言う人に限って任せっきりだったりする。
こうしたサービスや情報は参考程度に、最終的に選択するのはいつも本人だと思うのだよね。その視点で、自分が思いもしない情報を得られるとするなら、それはとても選択に対して有益な情報だと思う。


現状を疑った方が良いこともある。


インフラがハード面が整わないということで人が関わる仕事は、もしかすると「誰でも良い」ということを遠回しに示していることなのかもしれない。機械に出来ない部分を人が補うということを現在行っているとすれば。

自分しか生み出せない結果が伴う様な仕事に携われたら、それは本当の幸せなのだと思う。やりがいとしても十分に価値があるだろうと思う。

どうしても他者との物差しでは、収入が基準にされることがあるけれど、収入の比較だけじゃ見えない部分でもあるのだよね。正当な報酬か否かという部分に行きがちだけれども、本人の結果が示せるのであれば自然と評価は上げざるを得ない。

自分のやりがいに関して、外からのノイズを拾いすぎると、幸せを逃すことがある。なによりも「自分が楽しいと思える時間」を長く維持できることが大切なはずなのに。たまに色気を出して違う方向への望みを投げかけてしまうことがある。その結果、足元すくわれて踏み外すのは映画や小説に見られるストーリーだけれども、現実の世界でも案外目にする。

本人の喜びや楽しみの評価は本人しか分からない。他者から評価されることでは無いのだと思う。

─「仕事をつくる」を考える。─

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